。
はじめに
ここでは、自由と平和に関して、弁証法を頼りに、人間社会の発展との関連で、検討を行います。
ものごとの思考方法として、形而上学的方法と、弁証法的方法が、知られています。
形而上学は、「自然の事物や自然過程を個々ばらばらに、大きな全体的連関から切りはなして」とらえます。 (マルクス=エンゲルス全集 第20巻,20)
弁証法は、「事物とその概念による模写とを、本質的に、それらの連関、連鎖、運動、生成と消滅において」 (第20巻,22) とらえます。
従って、人間社会の発展との関連で、自由と平和を考えるのには、弁証法的思考方法が、必要です。
|
弁証法と形而上学
弁証法と形而上学に関して、『反デューリソグ論』から、以下のエンゲルスの考察を、学ぶことができます。
「われわれが自然または人間の歴史ないしはわれわれ自身の精神活動を考察する場合に、まず第一にわれわれの前に現われてくるのは、もろもろの連関と交互作用が限りなくからみあった姿である。そこでは、なにものも、もとのままのもの、ところ、状態にとどまるものはなく、すべてのものが運動し、変化し、生成し、消滅する。この原始的で、素朴な、しかし実質上正しい世界観が、古代ギリシア哲学の世界観であって、これを最初にはっきりと言いあらわした人は、ヘラクレイトスである。すなわち、万物は存在し、また存在しない、なぜなら、万物は流動し、不断に変化し、不断の生成と消滅のうちにあるからである、と。しかし、こういう見解は、諸現象の全体としての姿の一般的性格を正しくとらえてはいても、この全体の姿を構成している個別的なものを説明するには、不十分である。そして、われわれにそれが説明できないあいだは、全体の姿も、われわれにとって明らかにはならないのである。それらの個別的なものを認識するためには、それらをその自然的または歴史的な連関から取りだして、それぞれ別個に、その性状、その特殊な原因と結果などを研究しなければならない。これは、まず第一に、自然科学と歴史研究との任務である。これらの研究部門は、古典時代のギリシア人のあいだでは、まずはじめに材料を集めてこなければならなかったという、まことにもっともな理由で、従属的な地位を占めたにすぎなかった。精密な自然研究の初歩は、ようやくアレクサソドレイア時代のギリシア人のあいだで発展させられ、その後、中世にアラビア人によってさらに発展させられるのである。しかし、ほんとうの自然科学はようやく一五世紀の後半に始まるのであって、それ以後、たえず速度をくわえながら進歩してきた。自然をその個々の部分に分解すること、さまざまな自然過程や自然対象を一定の部類に分けること、生物体の内部構造をその多様な解剖学的形態について研究すること、これが、最近四〇〇年のあいだに自然を認識するうえでなされた巨大な進歩の根本条件であった。しかし、それはまた、自然の事物や自然過程を個々ばらばらに、大きな全体的連関から切りはなしてとらえるという習慣、したがって、運動するものとしてではなく静止しているものとして、本質的に変化するものとしてではなく固定した恒常的なものとして、生きているものとしてではなく死んだものとしてとらえるという習慣を、われわれに残した。そして、べーコンやロックによってなされたことであるが、この考え方は自然科学から哲学に移されて、最近の数世紀に特有な狭さ、すなわち形而上学的な考え方をつくりだした。
形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらな、ひとつずつ順次に、他のものと無関係に考察されなければならない、固定した、不動の、一度あたえられたらそれっきり変わらない研究対象である。彼はものごとを、もっぱら媒介のない対立において考える。彼のことばは、しかりしかり、いないな、これに過ぐるは悪より出ずるなり、である。彼にとっては、ある物は存在するか存在しないかのどちらかである。同様に、物はそれ自体であると同時に他のものであることはできない。積極的なものと消極的なものとは、絶対的に排除しあう。原因と結果も、同様にたがいに不動の対立をなしている。この考え方は、いわゆる常識の考え方であるだけに、一見してきわめてもっともであるように思える。しかし、この常識というやつは、わが家のうちの日常生活の領分ではひとかどのしろものであるが、研究という広い世間に乗りだすというと、まったく驚くべき冒険に出くわすのである。形而上学的な考え方も、対象の性質におうじて範囲の大小はあるが、きわめて広い領域で正当性をもっており、必要でさえあるとはいえ、遅かれ早かれかならず限界に突きあたるのであって、その限界からさきでは一面的な、狭い、抽象的なものとなって、解決できない矛盾に迷いこんでしまうのである。というのは、形而上学的な考え方は、個々の事物にとらわれてその連関を忘れ、それらの存在にとらわれてその生成と消滅を忘れ、それらの静止にとらわれてそれらの運動を忘れるからであり、木を見て森を見ないからである。」 (第20巻,20)
「ある対立の両極、たとえば積極的なものと消極的なものとは、対立していると同時に、またたがいに分離しえないものであり、まったく対立していながら、たがいに浸透しあっているのである。同様に、原説因と結果も、個々の場合に適用するときにだけそのまま妥当する観念であって、個々の場合を全世界との全体的連関のなかで考察するというと、たちまち両者は結びあい、普遍的な交互作用の映像のなかに解消してしまう。そこでは、原因と結果とはたえずその位置を換え、いま、あるいはここで結果となっているものが、あそこ、あるいはつぎには原因になり、またその逆もおこなわれるのである。」 (第20巻,20)
「弁証法というものは、事物とその概念上の模写とを、本質的にそれらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえるものであるから、弁証法にとっては、右に述べたような諸過程の一つひとつが、それ自身のものごとの取扱い方の確証となるのである。自然は弁証法の検証となるものである。そして、近代の自然科学が、こういう検証のためのきわめて豊富な、日々にますます積みかさねられてゆく材料を供給し、それによって、自然においては万事はけっきょく形而上学的にではなく弁証法的におこなわれているのだということを証明したことを、われわれは認めなければならない。」 (第20巻,21)
「世界全体、それの発展と人類の発展、さらにこの発展の人間の頭脳における映像を正確に示すことは、弁証法的な方法によって、生成と消滅、前進的または後退的な変化の全般的な交互作用にたえず留意する場合にだけ、達成することができるのである。」 (第20巻,21)
|
|
弁証法の三つの法則
弁証法の諸法則に関して、エンゲルスの『自然の弁証法』 (第20巻)において、以下の記述が、見出せます。
「全体的連関の科学としての弁証法。主要法則は以下のとおり。量と質との転化。 ―両極的対立物の相互浸透と、極端にまでおしすすめられたときのそれら対立物の相互の転化。 ―矛盾による発展または否定の否定。 ―発展の螺旋的形式。」 (第20巻,339)
「自然および人間社会の歴史からこそ、弁証法の諸法則は抽出されるのである。これらの法則は、まさにこれら二つの局面での歴史的発展ならびに思考そのものの最も一般的な法則にほかならない。しかもそれらはだいたいにおいて三つの法則に帰着する。すなわち、
量から質への転化、またその逆の転化の法則、
対立物の相互浸透の法則、
否定の否定の法則。」 (第20巻,379)
|
|
人間社会の発展における、自由と平和の考察は、「対立物」・「矛盾」・「否定」に着目して、行います。
自由と平和の考察では、「量」に着目しないので、「量と質との転化」の法則の適用は、必要ないと思われます。
『本文』の検索
はじめに、「対立物」や「矛盾」に着目して、マルクスやエンゲルスの、弁証法的思考を、学ぶことにします。
マルクスやエンゲルスの弁証法的思考は、『マルクス・エンゲルス全集』に、見出せます。
『全集』において、巻頭の解説文と巻末の索引などは、マルクス・エンゲルスによる、記述ではありません。
そこで、『全集』から解説文などを除外し、マルクス・エンゲルスの記述による部分を、抽出します。
それを、『本文』と、呼ぶことにします。
『本文』から、マルクス・エンゲルスが、「矛盾」などを、どのように用いたかを、学ぶことができます。
そのために、筆者が開発した、『電子書庫・書籍・書類・ノート』を、利用します。 『電子書庫・書籍・書類・ノート』の利用では、以下のことを、行います。
(1)スキャナーを用いて、ページ毎に、『全集』の画像ファイル(PDFファイル)を、作成します。
(2)画像ファイルから、OCRソフトを用いて、テキスト情報を、取得します。
(3)画像ファイルとテキスト情報を用いて、『全集』の『電子書籍』を、作成します。
(4)『電子書籍』の「切り抜き帳」の機能を利用して、『全集』から、『本文』の『電子書籍』を、作成します
(5)『電子書庫』の検索機能を利用し、複数の『本文』の『電子書籍』を対象に、情報検索を、行います。
(6)情報検索の結果から、「切り抜き帳」の機能により、該当ページからなる、『電子書籍』を、作成します。
『全集』は、55冊・41230ページ・1.9GBの、電子書籍です。
『本文』の電子書籍は、50冊・28921ページ・1.3GBの、大きさです。
『本文』の各巻を対象に、「対立」や「矛盾」をキーワードにして、情報検索を、行いました。
検索結果を、以下に、示します。
第1巻の「対立」の検索、122,247 は、122ページにわたり、247箇所に、検索されたことを、意味します。
「対立」と「矛盾」の検索
巻 | 年代 | 対立 | 矛盾 | 主な書名 | |
第1巻 | 1842年〜1844年 | 122,247 | 104,176 | |
第2巻 | 1844年2月〜1846年2月 | 93,178 | 42,85 | 聖家族
イギリスにおける労働者階級の状態 |
第3巻 | 1845年〜1846年 | 115,192 | 43,83 | ドイツ・イデオロギー |
第4巻 | 1846年5月〜1848年3月 | 83,139 | 53,93 | 共産党宣言 |
第5巻 | 1848年3月〜11月 | 23,34 | 23,27 | 『新ライン新聞』の諸論文 |
第6巻 | 1848年11月〜1849年7月 | 29,36 | 21,30 | 賃労働と資本 |
第7巻 | 1849年8月〜1851年6月 | 57,70 | 22,34 | フランスにおける階級闘争 |
第8巻 | 1851年8月〜1853年3月 | 45,64 | 27,36 | ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日 |
第9巻 | 1853年3月〜1853年12月 | 11,20 | 20,23 | |
第10巻 | 1854年1月〜1855年1月 | 19,22 | 10,10 | |
第11巻 | 1855年1月〜1856年4月 | 12,16 | 10,11 | |
第12巻 | 1856年4月〜1859年1月 | 19,28 | 14,17 | |
第13巻 | 1859年1月〜1860年2月 | 44,67 | 44,54 | 経済学批判 |
第14巻 | 1857年7月〜1860年11月 | 21,27 | 12,15 | |
第15巻 | 1860年1月〜1864年9月 | 15,17 | 21,24 | 北アメリカの内戦
|
第16巻 | 1864年9月〜1870年7月 | 28,40 | 29,40 | 賃金、価格、利潤
|
第17巻 | 1870年7月〜1872年2月 | 20,23 | 11,12 | フランスにおける内乱 |
第18巻 | 1872年3月〜1875年5月 | 42,65 | 36,45 | 住宅問題 |
第19巻 | 1875年3月〜1883年5月 | 39,60 | 25,34 | 空想から科学への社会主義の発展 ゴータ綱領批判 |
第20巻 | 1876年9月〜1878年6月 | 105,174 | 92,169 | 反デューリング論 自然の弁証法 | |
第21巻 | 1883年5月〜1889年12月 | 59,98 | 39,53 |
家族、私有財産および国家の起原
フォエルバッハ論
|
第22巻 | 1890年1月〜1895年8月 | 31,39 | 34,56 | |
第23巻 | 年月〜年月 | 38,68 | 42,61 | 資本論Ta |
第23巻 | 年月〜年月 | 8,10 | 8,9 | 資本論Tb |
第24巻 | ,年月〜年月 | 36,57 | 18,29 | 資本論U |
第25巻 | 年月〜年月 | 40,81 | 39,57 | 資本論Va |
第25巻 | 年月〜年月 | 28,39 | 27,31 | 資本論Vb |
第26巻 | 年月〜年月 | 35,52 | 29,41 | 剰余価値学説史T |
第26巻 | 年月〜年月 | 38,65 | 59,84 | 剰余価値学説史U |
第26巻 | 年月〜年月 | 88,159 | 67,121 | 剰余価値学説史V |
第27巻 | 1842年2月〜1851年12月 | 14,20 | 14,21 | 書簡 |
第28巻 | 1852年1月〜1855年12月 | 12,17 | 10,13 | 書簡 |
第29巻 | 1856年1月〜1859年12月 | 12,14 | 7,8 | 書簡 |
第30巻 | 1860年1月〜1864年9月 | 7,7 | 6,7 | 書簡 |
第31巻 | 1864年10月〜1867年12月 | 4,6 | 5,5 | 書簡 |
第32巻 | 1868年1月〜1870年7月 | 12,14 | 13,13 | 書簡 |
第33巻 | 1870年7月〜1874年12月 | 14,16 | 2,2 | 書簡 |
第34巻 | 1875年1月〜1880年12月 | 3,3 | 15,15 | 書簡 |
第35巻 | 1881年1月〜1883年3月 | 6,6 | 9,11 | 書簡 |
第36巻 | 1883年4月〜1887年12月 | 16,17 | 11,11 | 書簡 |
第37巻 | 1888年1月〜1890年12月 | 12,14 | 4,5 | 書簡 |
第38巻 | 1891年1月〜1892年12月 | 13,14 | 6,11 | 書簡 |
第39巻 | 1893年1月〜1895年7月 | 13,15 | 7,7 | 書簡 |
第40巻 | 1837年11月〜1844年8月 | 71,115 | 60,107 | 書簡 |
第41巻 | 年月〜年月 | 34,44 | 35,46 | 書簡 |
補巻1 | 年月〜年月 | 18,21 | 11,15 | |
補巻2 | 年月〜年月 | 3,6 | 15,17 | |
補巻3 | 年月〜年月 | 34,43 | 11,12 | |
補巻4 | 年月〜年月 | 13,13 | 11,12 | |
モールと将軍 | | 7,8 | 6,6 | |
|
|
|
「対立物の相互浸透」
弁証法の法則の一つとして、「両極的対立物の相互浸透」(第20巻,339)が、見出されます。
あるいは、「両極的」を省いた、「対立物の相互浸透の法則」 (第20巻,379) が、見出されます。
文字列「対立物の相互浸透」は、上記の箇所のみに、検出されます。
しかし、上記のページには、「対立物の相互浸透」に関する、詳細な解説や、具体的な例は、見出されません。
「両極的対立物の相互浸透」とは何かを、『本文』のキーワード検索を利用して、検討します。
文字列「両極的対立物の相互浸透」のキーワード検索では、1ページ・一箇所のみが、検出されます。
従って、「両極的対立物の相互浸透」の具体的な例は、このキーワード検索では、見出せません。
キーワード「両極的対立物」の検索では、既述の1ページが、検出されます。
「両極的対立」は、7ページが、「両極的な対立」は、3ページが、検出されます。 これらの検索結果から、「両極的対立」と「相互浸透」に関して、以下の記述が、見出されます。
「両極的対立」と「相互の浸透」
「牽引と反発とが最後には事実上たがいに相殺しあってしまうか、もしくはいっさいの牽引が究極には物質のある部分を占め、いっさいの反発が残りの部分を占めてしまうか、そのどちらかによって運動は終息するという可能性である。弁証法的見解にとっては、これらの可能性ははじめから存在しえない。両極的対立はすべて、一般に対立する二極相互の交代的変化によって条件づけられていること、これら二極が分離し対立するということは両者が対をなし統一されているということにのみなりたつことであって、また逆に両者が統一されていることは両者が分かれていることにのみなりたち、両者が対をなしていることは両者が対立していることにのみなりたつのだということ、これらのことをひとたび弁証法がわれわれのこれまでの自然経験の諸成果から証明した以上は、反発と牽引との究極的な相殺とか、ある運動形態は物質の一半に、他の運動形態は他の一半にというような運動形態の究極的な分配とかはともに問題になりえず、したがって両極の相互の浸透も、それらの絶対的な分離も、すべて問題にはなりえないのである。それはあたかも第一の場合には一つの磁石の北極と南極とがたがいに相殺しあうことを望み、第二の場合には一つの磁石を両極の中間で切断して、一方には南極を欠く北極側の一半を、他方には北極を欠く南極側の一半をつくりだそうと望むのとまったく同じ事柄である。ところがそうした諸仮定が許されないことが両極的対立の弁証法的性質からしてすでに結論されているにもかかわらず、自然科学者たちのあいだで有力な形而上学的な考え方のおかげで、すくなくとも第二の仮定だけは物理学の理論においてはある役割を演じている。」 (第20巻,388)
「両極的対立」の例
「人間と自然との両極的対立」 (第3巻,524)
「要するに牽引と反発という昔からの両極的な対立」 (第20巻,387)
「南北両極的な対立」 (第41巻,156)
|
|
「牽引と反発」の「両極的対立」は、「相互の浸透」がありえないものとして、捉えられます。
キーワードを、「両極的対立物」と「浸透」から、「両極的」を除くと、既述の2ページが、検出されます。
従って、「対立物」の「相互浸透」に関する具体的な事例は、これらのキーワード検索では、見出せません。
キーワード検索を、「対立」と「浸透」で行うと、14ページで、同一ページに、検出されます。
キーワード検索を、「対立」と「浸透」「相互」で行うと、5ページが、検出されます。
これらの検出結果より、「対立」と「浸透」に係る、以下の記述が、見出されます。
「対立」と「浸透」
「同様にどの生物体も、各瞬間に同一のものであってまた同一のものでない。それは各瞬間に、外から供給された物質を消化して、他の物質を排泄する。各瞬間に、その身体の細胞が死滅して、新しい細胞が形成される。おそかれはやかれある時間ののちには、この身体の物質はまった更新されて、他の物質原子によって置きかえられる。だから、どの生物体も、つねに同一のものであって、しかも別のものなのである。さらにいっそう詳しく考察すると、肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時にたがいに分離することのできないものであり、まったく対立しているにもかかわらず、相互に浸透しあっているということがわかる。同様に、原因と結果とは、これを個々の場合に適用するときにだけそのままあてはまる観念であって、個々の場合を世界全体との全般的連関のなかで考察するやいなや、両者は重なりあい、普遍的交互作用の観念に解消してしまうのであって、そこでは原因と結果とはたえずその位置を取りかえ、いま、またはここでは結果であったものが、あちら、またはあとでは原因になり、またその逆にもなるということがわかるのである。」 (第19巻,201)
「ある対立の両極、たとえば積極的なものと消極的なものとは、対立していると同時に、またたがいに分離しえないものであり、まったく対立していながら、たがいに浸透しあっているのである。同様に、原因と結果も、個々の場合に適用するときにだけそのまま妥当する観念であって、個々の場合を全世界との全体的連関くのなかで考察するというと、たちまち両者は結びあい、普遍的な交互作用の映像のなかに解消してしまう。」 (第20巻,21)
「二週間前にひらかれた民主主義協会の会議でヴァイトリング氏によって説明された原理を検討し、かなり長い精緻な演説で、ヴァイトリングの想定するような政治的利害と社会的利害との分離が不可能なのは、この両者をまったく対立させて考えることが不可能なのと同様であること、むしろ政治的利害と社会的利害とは相互に浸透せざるをえないことを、過去数世紀の諸革命の歴史的発展にもとついて立証しようとつとめた。〔彼は言った。〕社会的発展が政治的発展を抑止するという主張も、同様に誤りである。遺憾ながら、われわれドイツ人は、社会的発展にかんしては、フランス人がすでに〔一七)八九年に到達した点に、今ようやく立っているのである。今日の諸対立の解決は、これらの対立を鋭く摘出し、それぞれの階級の利害を強調することによってのみ、可能である。こうしてはじめて、すなわち、精神的武器を適用することによってはじめて、穏当な仕方で解決をもたらすことができる。」 (補巻2,435)
|
|
「対立物の相互の転化」
弁証法の法則として、「極端にまでおしすすめられたときのそれら対立物の相互の転化」が、あります。
文字列「対立物の相互の転化」のキーワード検索では、既述の1ページのみが、検出されます。
従って、「対立物の相互の転化」が、何を意味するのか、その用例は、この検索では、見出されません。
「極端」・「対立物」・「転化」のキーワード検索では、1ページのみが、検出されます。
「極端」・「対立」・「転化」の検索では、9ページが、検出されます。
「対立物」・「転化」の検索では、16ページが、検出されます。
「対立」・「転化」の検索では、200ページが、検出されます。
「対立」・「移行」の検索では、49ページが、検出されます。
「対立」・「転化」・「相互」の検索では、22ページが、検出されます。
「対立」・「移行」・「相互」の検索では、7ページが、検出されます。
「対立物」の同義語として、「反対物」が、用いられています。
「反対物」・「転化」の検索では、32ページが、検出されます。
これらの検索結果より、「対立物の転化」などに係る、以下の用法が、見出されます。
「対立物」と「転化」
「競争の法則は、需要と供給はつねに一致しようとする、だからこそけっして一致することはない、ということである。これら両側面はふたたびひきさかれて、するどい対立物に転化される。供給は、つねに需要のすぐあとを追うが、しかし正確にそれに合致するようにはけっしてならない。 (第1巻,558)
「今日の生産様式のもとでは、自然や社会について考慮されることは、主として、いちばん最初の、いちばんわかりやすい結果だけである。そしてあとになってから、そうした結果をめざした行動の、もっとさきになって現われてくる影響が、それとはまったく違っていて、たいていはその正反対のものになっていることに驚き、需要と供給との調和が十年ごとの産業循環の経過に示されているように、またドイツでも「大がら」としてそのささやかな序幕を体験しているように、この両者の対極的な対立物にまで転化してしまうことに驚き、自己の労働に基礎をおく私的所有が必然的に働く人々の無所有にまで進展する一方では、財産はすべて働かざる人々の手にますます集中してゆくことに驚き、」 (第20巻,495)
「哲学上の二つの方向、すなわち固定したカテゴリーをもつ形而上学的方向と、流動的なカテゴリーをもつ弁証法的方向(アリストテレスと、とくにへーゲル)。以下の事項の証明、すなわち、根拠と帰結、原因と結果、同一性と区別、仮象と本質というこれらの固定した対立物が維持しがたいこと、分析は一方の極がすでに他方の極のうちに萌芽的に(innuce)存在することを立証していること、特定のある点で一方の極は他方の極に転化すること、そして論理の全体は進行しつつあるこれらの対立からのみ展開されてゆくこと。」 (
第20巻,512)
「またたいていの自然科学者は同一性と区別とを和解しがたい対立物であると考え、両者がいずれも一面的な極であって、それらの極はただ交互作用においてのみ、同一性のうちに区別をつつみこむ場合にのみ、真理性があるのだとは考えていない。
同一性と区別―必然性と偶然性―原因と結果―この二つの主要な対立は、これを切りはなして取り扱うと、たがいに転化しあう。
そしてそのときには「根拠」が助けになるはずである。」 (第20巻,524)
「反対物」と「転化」
「ゲルマン的観念論はきわめて自由にふるまうことができたので、自己の反対物である抽象的外面性に転化するにいたった。婦人や児童の売買がいまなお法律上でみとめられていることや、一般にイギリス人の商業精神は、断然ゲルマン的要素にかぞえられるべきものである。同様に、ラテン的唯物論は、抽象的観念論に、内面性と宗教性とに転化した。」 (第1巻,606)
「個人的ふるまいの、その反対物、すなわちたんなる事物的ふるまいへの転化、諸個人自身による個性と偶然性との区別は、われわれがすでに指摘したように、一つの歴史的過程であって、さまざまな発展段階においてさまざまな、ますます鋭くて普遍的な形式をとってゆく。現代においては個人個人にたいする事物的諸関係の支配、偶然性による個性の押しつぶしは、その最も先鋭な、最も普遍的な形式をとっており、そのことによって、現存している諸個人に一つのまったく明確に規定された任務を課している。それは、諸個人にたいする諸関係および偶然性の支配のかわりに、偶然性および諸関係にたいする諸個人の支配をうち立てるという任務を彼らに課したのである。」 (第3巻,475)
「対立の両極はその反対物に転化し、真理は誤謬となり、誤謬は真理となる。有名なボイルの法則を例にとろう。この法則によると、温度が一定であれば、気体の体積はその気体の受ける圧力に逆比例する。ルニョーは、この法則がある種の場合にあてはまらないことを見いだした。ところで、もし彼が現実哲学者であったなら、こう言わなければならなかったであろう。ボイルの法則は変わることのないものではない、したがって真正の真理ではない、したがっておよそ真理などではない、したがって誤謬である、と。だがそんなことをしたなら、彼は、ボイルの法則にふくまれていた誤謬よりも、ずっと大きな誤謬をおかしたことになったであろう。彼の一粒の真理は誤謬の砂山のなかに消えてなくなったであろう。つまり、彼は、元来正しかった彼の結論を誤謬に仕立てあげてしまったであろうし、それにくらべれば、ボイルの法則は、些少の誤謬がこびりついたままでも、なお真理と見えたことであろう。しかし、科学者であるルニョーは、そんな子供じみた事柄にはかかわりあわないで、さらに研究をすすめて、ボイルの法則は一般に近似的に正しいだけであり、とくに圧力によって液化させることのできる気体の場合にはその妥当性を失い、しかも、圧力が液化の起こる点に近づくやいなやそうなる、ということを見いだした。こうして、ボイルの法則は、一定の限界内でだけ正しいことがわかったのである。」 (第20巻,94)
「文明のどの新しい進歩も、同時に不平等の新しい進歩である。文明とともに生まれてきた社会がみずからのためにつくりだす制度はすべて、それの元来の目的の反対物に転化する。」 (第20巻,145)
「だから、ルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがあるだけでなく、個々の点でも、マルクスが用いているのと同じ弁証法的な論法が、多数見いだされるのである。すなわち、その本性において敵対的で、矛盾をふくんでいる過程、一つの極端のその反対物への転化、最後に、全体の核心としての否定の否定がそれである。」 (第20巻,146)
「この一次的な電気分解過程を切りはなして考えるときには、それはそれだけではすこしも電流を生じさせることはできない過程であり、それどころかそれ自体けっして生じえない過程でさえある。純化学的なものとされていた二次的過程こそ、この一次的な過程をはじめて可能にするばかりか、なおそのうえに電流形成のための余剰のエネルギーをまるまる提供しているのである。だから現実にはこの二次的過程こそ一次的なものなのであって、一次的なものはじつは二次的なものにすぎないことが立証されたわけである。形而上学や形而上学的な思考を事とする自然科学者たちが信じて疑わなかったもろもろの固定的な区別や対立物をへーゲルが弁証法的にひっくりかえし、それぞれの反対物に転化させてみせたとき、へーゲルは彼らのことばを曲解していたのだということにされた。」 (第20巻,462)
「彼らがへーゲルを非難して、へーゲルは抽象を極端に押しすすめているというとき、彼ら自身もまたそれと同じことをずっと大規模にやってのけている。彼らが忘れさっていることは、いわゆる純粋数学なるものはすべて抽象を取り扱っているということであり、それが取り扱う諸量は、厳密にいえば、ことごとく想像上の量なのであって、抽象なるものはすべて、これを極端にまで押しすすめるときには、背理かあるいは自己の反対物に転化してしまうということである。数学上の無限は、たとえ無意識にではあるにせよ、現実から借用してきたものであり、またしたがってこの無限はただ現実からのみ説明しうるものでもあり、けっしてそれ自体から、数学的抽象から説明しうるものではない。」 (第20巻,576)
「商品―個人的労働の特殊な生産物―をその反対物である貨幣に、すなわち抽象的な一般的な社会的な労働に転化させることの困難は、貨幣が個人的労働の特殊な生産物としては現われない、ということのうちに、すなわち、販売を終えた人つまり商品を貨幣の形態で所持している人が、すぐに再び買うことを、つまり貨幣を再び個人的労働の特殊的生産物に転化させることを、強制されない、ということのうちに存するのである。物々交換には、このような対立は存在しない。そこでは、売り手であるということは必ず買い手であるということであり、また買い手であるということは必ず売り手であるということでもある。売り手の困難―彼の商品が使用価値をもつという前提のもとでの―は、ただ、買い手が貨幣の商品への再転化を容易に延期しうる、ということからのみ生ずるのである。商品を貨幣に転化させることの困難、すなわち、それを販売することの困難は、もっぱら、商品は貨幣に転化されなければならないが貨幣はすぐに商品に転化されなくてもよいということからのみ、つまり販売と購買とは分離しうるということからのみ、生ずるのである。」 (第26巻・剰余価値学説史U,688)
「労働は、私的個人の労働であって、一定の生産物に表わされている。しかしながら、価値としては、生産物は社会的労働の具体化でなくてはならないし、またそのようなものとして、ある使用価値から他のどんな使用価値へも直接に転化することが可能でなくてはならない。(その労働が直接に表わされる一定の使用価値は、なんであってもよい。それゆえ、ある形態の使用価値から他の形態のそれへの転換が可能なのである。) だから私的労働は、直接、それの反対物として、社会的な労働として、表わされなくてはならない。このうな転化された労働は、その労働の直接の反対物としては、抽象的一般的労働であり、したがってまた、一つの一般的等価物で表わされる労働である。このような労働の譲渡によってのみ、個人の労働は、現実に、それの反対物として表わされるのである。だが、商品は、それが譲渡されるより前に、このような一般的表現をもたなければならない。個人の労働を一般的労働として表示するこの必然性は、一商品を貨幣として表示する必然性である。」 (第26巻・剰余価値学説史V,174)
「そしてさらに、それやえ革命を遂行したのはこれらの平民に他ならなかったという点である。しかし事態がこのように進行したのは、これら平民がブルジョアジーの革命的諸要求に、それには含まれていなかったような意味を付与し、平等と友愛とを推しすすめて、徹底した結論を引き出したからである。その結論は、このスローガンのもつブルジョア的意味を、完全に逆転させてしまった。というのも、これらの標語の意味をギリギリの限界まで追求すれば、それはまさにその反対物に転化する性格のものだったからである。だが、この平民的平等と友愛は、そのまさに反対物を創り出すことが問題になっていた時代においては、夢物語とならざるを得なかった。そしてつねのごとく―歴史の皮肉―これら革命的スローガンについてのこのような平民的把握が最も強大な原動力となって、ついにその反対物、つまり―ブルジョア的平等―法のまえの―と、友愛―搾取における―が、実現されるにいたったのである。」 (第37巻,128)
「対立物」と「移行」
「競争の対立物は独占である。独占は重商主義者の鬨の声であったが、競争は自由主義的経済学者の鬨の声であった。このような対立がまたしてもまったく空虚なものであることは、容易に理解できる。労働者であろうと、資本家または土地所有者であろうと、競争者はみな独占をえようとのそむにちがいない。競争者の小集団はいずれも、他のすべての小集団に対抗して独占をえようとのぞむにちがいない。競争は利害にもとづき、利害はまた独占を生みだす。つまり、競争は独占に移行する。他方では、独占は競争の流れを止めることができないばかりでなく、それは競争そのものを生みだす。たとえば、輸入禁止または高関税は、密輸入という、競争をただちに生みだす。」 (第1巻,513)
「いっさいの区別されたものが中間段階において合流し、いっさいの対立物が中間項をつうじて相互に移行しあう、そういう段階での自然観にとっては、古い形而上学的な思考方法はもはや不十分である。」 (第20巻,521)
「ところで潜勢力は、存在に移行することもしないこともできるこうした自由な、無限なものであるから、したがって、存在と非存在という二つの相矛盾した対立物はその潜勢力のなかで排除しあうことはない。この、移行しないこともありうるということ(das Auch-nicht-iibergehen-Konnen)は、前者が潜勢力のうちにありつづけるかぎり、この前者と等しい。直接的に存在可能なもの[das unmittelbare Seinkonnende)が現実的に移行する場合にはじめて、他方はそれによって排除される。両者の潜勢力のなかでの無差別はやむ。」 (第41巻,195)
「対立」と「移行」
「物質的労働と精神的労働という最大の分割は都市と地方の分離である。都市と地方の対立は野蛮から文明への、部族制から国家への、地方から全国への移行とともに始まって、文明の全歴史を今日(反穀物法同盟)にいたるまで貫いている。―都市ができると同時に行政、警察、租税等々、約言すれば共同体組織、したがってまた政治一般がいやおうなしに必要となる。まずここに、労働の分割と生産用具に直接もとづくところの、人口の二大階級への分割が現われた。都市はすでに人口、生産用具、資本、享楽、必要物の集中の事実を示しているのにたいして、地方はその正反対の事実、離隔と孤立をあらわしている。都市と地方の対立はただ私的所有の内部でのみ存在しうる。それは個人が労働の分割下に編入され彼に押しつけられた特定の活動に釘づけにされている状態のきわめてあざやかな表現であって、そのような状態は一方の人間を偏狭な都市動物、他方の入間を偏狭な地方動物たらしめ、両者の利益の対立を日日に新しく生みだす。労働がここでもまた個人に君臨する主要事、力なのであって、それの存在するかぎり、私的所有は存在せざるをえない。都市と地方の対立の廃止は共同社会の最初の諸条件の一つであり、そしてこの条件はこれはこれでまたたくさんの物質的条件に依存し、だれにでも一見、明らかなように、たんなる意志によってはかなえられえないものである。」 (第3巻,46)
「だからわれわれはいまやたんなる牽引と反発という二つの基本形態をもつのではなく、この両者の対立のなかで繰りひろげられ繰りもどされている普遍的運動の過程がそのもとに生じるところの一連の下位形態の全部をもつことになる。しかしながらこれらの多様な現象形態を運動というたった一つの表現のもとに総括するのは、けっしてたんにわれわれの頭だけがしていることではない。逆にそれらの現象形態自体が、条件しだいで一つの形態から他の形態に移行することによって、それらはじつは同じ一つの運動の諸形態であることを、身をもって証明してくれているのである。力学的な物体の運動は熱に、電気に、磁気に移行する。熱と電気は化学的分解に移行する。化学的結合は化学的結合でふたたび熱と電気を生じさせ、また後者を媒介にして磁気をつくりだす。そして最後に熱と電気はまたもや力学的な物体運動を生産する。」 (第20巻,394)
「弁証法、いわゆる客観的弁証法は、自然全体を支配するものであり、またいわゆる主観的弁証法、弁証法的な思考は、自然のいたるところでその真価を現わしているところの、もろもろの対立における運動の反映にすぎない。そしてそれらの対立こそは、そのあいだの不断の闘争により、また結局はそれらがおたがいに移行しあうかあるいはより高次の形態に移行することによって、まさに自然の生命を条件づけているのである。」 (第20巻,519)
「プラトンは現実性にたいする彼のこの関係を次のように直観している、つまり、自立的なイデア界は現実性を超えたところにあって(この彼岸は哲学者自身の主観性である)、現実性のうちにはぼかされて反映している、と。もしソクラテスが実体から主観へと移行している観念性という名称を発見しただけであり、彼自身はまだ、意識的にこの運動であったとすれば、実体的な現実世界はいまや現実に観念化されてプラトンの意識のなかに入ってくる。だが、それとともに、この観念的世界それ自身は、それに対立する現実的に実体的な世界と同じように、単純にそれ自身のなかで分節されている。」 (第40巻,69)
「分割」と「対立」
「利潤にたいして別々の請求権をもっている二人の人のあいだでの利潤の純粋に量的な分割が質的な分割に転化したのであって、この分割が資本や利潤そのものの性質から生じている見えるである。なぜならば、すで見たたように、利潤の一部分が一般的に利子の形態をとるに至ったとき、平均利潤と利子との差額、すなわち利潤のうち利子を越える超過分は、利子に対立する形態に、企業者利得という形態に、転化するのだからである。この二つの形態、利子と企業者利得とは、ただそれらの対立のうちに存在するだけである。だから、それらは両方とも、剰余価値に関連しているのではなく、ただ別々の範疇、項目または名称に固定された剰余価値の諸部分であるだけであって、むしろそれらどうしが互いに関連しているのである。利潤の一方の部分が利子に転化するので、そのために他方の部分が企業者利得として現われるのである。」 (第25巻・資本論Va,474)
剰余価値と労賃とのあいだの分割には利潤率の規定が本質的にもとづいているのであるが、この分割では二つのまったく違った要素、すなわち労働力と資本とが規定的に作用する。そこではニつの独立変数の函数が互いに限界づけ合っている。そして、それらの質的な相違から、生産された価値の量的な分割が出てくるのである。剰余価値が地代と利潤とに分割される場合にも同じことが起きるということは、あとでわかるであろう。利子の場合にはこのようなことはなにも起きない。この場合には、すぐあとで見るように、逆に、質的な区別が、剰余価値の同じ一部分の純粋に量的な分割から出てくるのである。」 (第25巻・資本論Va,455)
「利潤にたいして別々の請求権をもっている二人の人のあいだでの利潤の純粋に量的な分割が質的な分割に転化したのであって、この分割が資本や利潤そのものの性質から生じているように見えるである。なぜならば、すでに見たたように、利潤の一部分が一般的に利子の形態をとるに至ったとき、平均利潤と利子との差額、すなわち利潤のうち利子を越える超過分は、利子に対立する形態に、企業者利得という形態に、転化するのだからである。この二つの形態、利子と企業者利得とは、ただそれらの対立のうちに存在するだけである。だから、それらは両方とも、剰余価値に関連しているのではなく、ただ別々の範疇、項目または名称に固定された剰余価値の諸部分であるだけであって、むしろそれらどうしが互いに関連しているのである。利潤の一方の部分が利子に転化するので、そのために他方の部分が企業者利得として現われるのである。」 (第25巻・資本論Va,474)
「民族内部での労働の分割はさしあたりまず農耕労働からの工業および商業労働の分離、およびそれとともに都市と地方の分離と両者の利益の対立を招来する。分業のいっそうの発展は工業労働からの商業労働の分離へ導く。同時にこれむいろいろの部門の内部での労働の分割によってまたしても特定の諸労働に協力する諸個人のあいだにいろいろな区分けが生じる。これら個々の区分け相互間の地位は農、工、商の諸労働のいとなみ方によって条件づけられている。」 (第3巻,18)
|
|
「対立物」と「闘争」
「対立物」に係る用語として、「対立物の闘争」が、用いられることがあります。
「対立物」・「闘争」でキーワード検索を行うと、12ページが、検出されます。
「対立」・「闘争」で検索を行うと、252ページが、検出されます。
これらの検索結果から、「対立物」と「闘争」などにに関して、以下の記述が、見出されます。
「対立物」と「闘争」
「しかしひとたび理性が定立として自己を定立するにいたるや、この定立、この思考は、自己を自己自身に対立させることにより、相矛盾する二つの思考、すなわち、肯定と否定とに、然りと否とに、分裂する。反定立のなかに包含されているこの二つの敵対的諸要素の闘争が、弁証法的運動を構成する。然りが否になり、否が然りになり、然りが同時に然りと否とになり、否が同時に否と然りとになる、このようにして対立物がみずからに平衡を保ち、自己を自己に中和し、自己を自己に揚棄する。この相矛盾する二つの思考の融合が、その総合たる一つの新しい思考を構成する。この新しい思考が、さらに二つに分裂して相矛盾する二つの思考となり、こんどはこの二つの思考が融合して一つの新しい総合を形成する。」 (第4巻,132)
「むろん、真の、自然的、歴史的、弁証法的な否定こそが、あらゆる発展の推進者(形式の面からみて)なのである。―すなわち、対立物への分裂、それらの闘争と解決、そのさい、獲得された経験にもとついて、最初の出発点が(歴史においては部分的に、思考においては全的に)、ただしより高い段階で、ふたたび到達されるのである。」 (第20巻,628」
「対立」と「闘争」
「このように、競争は、資本と資本を、労働と労働を、土地所有と土地所有を対立させ、同じくこれらの要素のおのおのを他の両要素と対立させる。闘争では強いほうが勝つ。だからこの闘争の結果を予言するには、われわれは、闘争するものの強さを調べなければならないであろう。まず土地所者と資本は、いずれも労働より強い。なぜなら、労働者は生きるために働かなければならないのに、土地所有者は彼の地代により、資本家は彼の利子によって生きていくことができるし、万一の場合には、彼の資本あるいは彼の資本化された土地所有によって生きていくことができるからである。その結果として、生産物の大部分は資本と土地所有のあいだに分配されるのに、労働にはもっとも必要不可欠なもの、すなわち生活手段だけがあたえられるにすぎない。さらに、つよい労働者はよわい労働者を、大きな資本は小さな資本を、大きな土地所有は小さな土地所有を、市場から駆逐する。」 (第1巻,566)
「供給者の求める売買価値と需要者の与える売買価値とのあいだで、闘争がおこなわれるのである。生産物の交換価値というものは、つねに、相互に矛盾するこれらの価値評量の合成物なのである。要するに、供給と需要とは、生産と消費とを、しかも、私的な交換を基礎とする生産と消費とを、対立させるのだ。供給される生産物は、それ自体で効用あるものなのではない。消費者が、〔まえもって―ドイツ語版〕その効用を確認するのである。そればかりか、たとえそれが効用あるものとしての資格を認められても、それはたんに、効用ある物というだけのものではない。生産の諸過程で、それは、原料、労働者の賃金等々といったようないっさいの生産費と、交換されてきているのである。しかも、これらの〔原料や賃金といったような〕ものはすべて、売買価値なのである。だから、この生産物は、生産者からみれば、もろもろの売買価値の総計を代表しているのである。彼の供給するものはたんに、効用ある物であるばかりでなく、さらになによりもまず売買価値なのである。」 (第4巻,71)
「弁証法的運動を構成するものは、矛盾する二つの面の共存、その闘争、およびあらたな一カテゴリーとなるそれらの融合である。悪い面を除去するという問題をみずからに課することだけで、弁証法的運動は中断されてしまう。カテゴリーが、その矛盾的な本性によって、自己を定立し、自己を自己自身に対立させるのではなくて、プルードン氏のほうが、カテゴリーの二つ面のあいだで、いきりたち、もがき、あばれるのである。」 (第4巻,136)
「ブルジョアジーが成長するにつれて、その胎内にあらたなプロレタリアートが、近代的プロレタリアートが、成長する。プロレタリア階級とブルジョア階級とのあいだに一つの闘争が発展する。だがこの闘争は、それが双方によって感じられ、気づかれ、評価され、理解され、言明され、公然と宣言されるまでは、ただ、部分的・一時的衝突によって、破壊的行為によって、予告的にその姿を現わすにすぎない。他面、近代ブルジョアジーの全成員は、彼らが他の一階級と対立する一階級を形成するかぎりでは、同一の利害関係をもつけれども、彼らのうちのあるものが、他のものたちと相対立しているかぎりでは、相対立する敵対的な利害関係をもつのである。この利害の対立は、彼らのブルジョア生活の経済的諸条件から発生する。」 (第4巻,144)
「労働者階級の解放の条件、それは、あらゆる階級の廃止である、ちょうど、第三身分の、ブルジョア階層の解放の条件があらゆる身分とあらゆる階層との廃止であったのと同様に。
労働者階級は、その発展の過程において、諸階級とその敵対関係を排除する一つの共同社会をもって、ふるい市民社会におき代えるであろう。そして、本来の意味での政治権力はもはや存在しないであろう。なぜなら、まさに政治権力こそ、市民社会における敵対関係の公式の要約〔公的表現ードイツ語版〕だからである。
そうなるまでは、プロレタリアートとブルジョアジーとのあいだの敵対関係は、階級対階級の闘争であって、この闘争がその最高表現に達するとき、それは全面的革命となる。だがそれにしても、諸階級の対立を基礎とする一つの社会が、最後の結末として血みどろの矛盾に、激烈な白兵戦に帰着する、ということは驚くべきことであろうか?
社会運動は政治運動を拒否する、と言ってはならない。政治運動であって同時に社会運動でないものは、絶対に存在しない。
諸階級と階級対立がもはや存在しない事態においてのみ、社会的進化は政治的革命であることをやめるであろう。そのときまでは、つまり、社会のあらゆる全般的変革の前夜にあっては、社会科学の最後のことばは、つねに、次の一句に尽きるであろう、―
「戦いか、死か。血まみれの戦いか、無か。問題は厳として、こう提起されている。」ジ・ルジナサンド」 (第4巻,190)
「自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、同職組合の親方と職人、要するに、抑圧するものと抑圧されるものとは、つねに対立して、ときには隠れた、ときには公然たる闘争をたえまなくおこなってきた。そして、この闘争は、いつでも社会全体の革命的改造に終わるか、あるいは、あいたたかう階級の共倒れに終わった。」 (第4巻,476)
「最後に、階級闘争が決着に近づく時期になると、支配階級内部の、全体としての旧社会内部の、解体過程は、きわめて激しい、鋭い性格をおびてくるため、支配階級の小部分は、この階級と絶縁して、革命的階級、すなわち未来をその手にになう階級に加担するようになる。したがって、以前に貴族の一部がブルジョアジーの側に移行したように、いまやブルジョアジーの一部、とくに歴史的運動全体を理論的に理解するまでに向上してきたブルジョア思想家の一部が、プロレタリアートの側に移行する。
今日ブルジョアジーに対立しているすべての階級のうちで、プロレタリアートだけが真に革命的な階級である。その他の階級は、大工業とともに衰え、没落する。プロレタリアートは大工業の最も特有の産物である。
中間身分、すなわち小工業者や、小商人や、手工業者や、農民、この人々がブルジョアジーとたたかうのは、すべて中間身分としての自分の存在を没落から守るためである。したがって、彼らは革命的ではなく、保守的である。それどころか、反動的でさえある。なぜなら、彼らは歴史の車輪を逆に回そうとするのだからである。もし彼らが革命的になることがあるとすれば、それは、彼らがプロレタリアートのなかに落ちこむ時がせまっていることをさとった場合であり、彼らの現在の利益ではなしに、未来の利益を守る場合であり、彼ら自身の立場をすてて、プロレタリアートの立場にたつ場合である。
ルンペン・プロレタリアート、旧社会の最下層のこの受動的な腐敗分子は、ときどきプロレタリア革命によって運動にまきこまれるが、その生活上の地位全体からみて、むしろ喜んで反動的陰謀に買収されるであろう。」 (第4巻,485)
「未来社会のこういう空想的な描写は、プロレタリアートがまだきわめて未発達で、したがって自分でもまだ自分の地位について空想的な見方をしていた時期に、プロレタリアートがいだいていた社会の全般的な改造にたいする初期のおぼろげなあこがれにおうじるものであった。
しかし、これらの社会主義的および共産主義的著作は、また批判的な要素をもふくんでいる。それらは、現存社会いっさいの基礎を攻撃している。だから、それらは、労働者を啓蒙するためのきわめて貴重な材料を提供した。未来の社会についてそれらの著作が提出している積極的な命題、たとえば、都市と農村の対立や家族や私的営利や賃労働を廃止することとか、社会的調和の宣言とか、国家をたんなる生産管理機関に転化することとか―それらの著作のこうした命題はみな、階級対立の消滅を言いあらわしたものにほかならない。だが、その階級対立はやっと発展しはじめたばかりで、これらの著作はそれを、その初期の、さだかでない、はっきりしない姿でみていたにすぎない。したがって、これらの命題そのものも、まだ純然たるユートピアの意味をもつものであつた。
批判的=ユートピア的な社会主義および共産主義の意義は、歴史的発展に反比例する。階級闘争が発展して、はっきりした形をとるにつれて、このように空想のうえで階級闘争を超越し、空想のうえで階級闘争を克服することには、どんな実践的な価値も、どんな理論上の正当性もないようになる。」 (第4巻,505)
「二月革命は、美しい革命、万人共感の革命であった。なぜなら、この革命で王権に抗して爆発した諸対立は、まだ未発達で、仲よくならんでまどろんでいたからである。この革命の背景をなす社会的闘争は、架空の存在、つまり空文句のうえの、ことばのうえの存在にしかなっていなかったからである。六月革命は、醜い革命、いとうべき革命である。なぜなら、事実が空文句にかわって現われたからである。共和制が、怪物の頭から、それをつつみかくしていた王冠をたたきおとして、この怪物の頭自身をむきだしにさせたからである。」 (第5巻,129)
「ただ弱々しい卑怯な気持の人たちだけが、こういう疑問を提出することができる。ブルジョア社会そのものの諸条件から生じる諸衝突、それは徹底的にたたかいぬかれねばならない、それは空想で除き去れるものではない。もっともよい国家形態とは次のようなものである。その形態内では社会的対立があいまいにされないような、またその対立が力ずくで、すなわちただ人為的に、つまりただ外見上で拘束されることのないような、国家形態である。もっともよい国家形態とは、社会的対立をして自由な闘争をさせ、それによって解決に到達させる、そういう国家形態である。」 (第5巻,131)
「ところが、資本の独占、立法なしにも存在するし、しばしば立法に逆らってまでおこなわれるこの独占は、『ケルン新聞』の諸氏にとっては存在しないのである。しかもこのような独占こそ、まさしく労働者を情け容赦もなく直接に圧迫し、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争を生みだすものなのだ!そしてこの独占こそ、近代に特有の独占であって、近代的階級対立はその産物である。そして、この対立の解決こそが、一九世紀の特殊的課題である!」 (第5巻,285)
「では、いまや『レフォルム』紙は、けわしく対立する諸階級のあいだにはいっていくだろうか?同紙も、階級対立と階級闘争は階級が消滅するとともにはじめて消滅する、という予感だけにでも達するほど、向上するだろうか?
そうではない!同紙はたったいま階級対立を承認した。ところが、階級対立は、経済的基礎、従来の物質的生産様式およびこれから生ずる交通諸関係にもとついている。『レフォルム』紙は、階級対立を変化させ廃止するために、対立のほんとうの基礎から、まさにこれらの物質的諸関係から目をそらせ、共和主義的イデオロギーの青い霞の空へ逃げかえること、つまり六月事件によって彼らが荒々しくそこから投げだされた、あの詩的な二月の時期へ、ふたたび飛びこむこと以外に、よりよい手段を知らないのである。」 (第5巻,449)
「この空想上の階級関係の廃止に相応していた常套文句が友愛、つまり全般的な親睦と博愛であった。階級対立のこのように気持のよい捨象、矛盾する階級利害のこうしたセンチメンタルな和解、階級闘争からのこうした夢想的な超越、すなわち友愛、これが二月革命の本来の合言葉であった。階級は、たんなる誤解によって分裂したにすぎなかった。」 (第7巻,19)
「工業が国民の利害全体、すべての階級のいっさいの生活条件の集中点となるほどの規模に達しているところは、イギリスだけである。ところで工業とは、一方では工業ブルジョアジー、他方では工業プロレタリアートにほかならないが、国民のそれ以外の構成部分はすべてしだいにこの相対立する階級のまわりに結集してゆく。だから、覇権をにぎるのはだれか、工業資本家か工業労働者かが問題になるだけであるこの国、ほかならぬこの国にこそ、階級闘争が近代的なかたちでたたかいぬかれうる場面が存在するのであって、そこでは、一方では工業プロレタリアートが政治的支配を獲得するだけの力をもち、他方ではプロレタリアートに社会革命全体と階級対立の最終的なとりのぞきとを可能にさせる物質的手段、生産諸力が見いだされる。そして両工業階級の対立の極度の強化と、支配階級にたいする被抑圧階級の最後の勝利とにみちびくイギリスのこのような発展方向が、外国の圧迫によってねじまげられたり、そのエネルギーをよわめられたり、決戦が無期延期されたりすることのないことこそ、ヨーロッパの全プロレタリア党の最大の関心事であることは言うまでもない。」 (第8巻,207)
「そのあいだに、同盟やヴァイトリングの共産主義とならんで、第二の、それとは本質的に違った共産主義がつくりだされていた。私がマンチェスターでまざまざと見せつけられたのは、これまでの歴史叙述ではなんの役割も演じていないか、あるいはとるにたらない役割を演じているにすぎない経済的諸事実が、すくなくとも近代世界では決定的な歴史的力であるということ、この経済的諸事実が今日の階級対立のなりたつ土台であること、大工業のおかげでこれらの階級対立が十分に発達した国々、したがってとりわけイギリスでは、この階級対立はさらに政党形成の、党派闘争の土台となっており、こうしてまた全政治史の土台になっているということである。マルクスはこれと同じ見解に達していたばかりでなく、すでに『独仏年誌』(一八四四年)でそれを次のように一般化していた。すなわち、総じて国家が市民社会を条件づけ規制するのではなく、市民社会が国家を条件づけ規制するのであり、したがって政治と政治史とは経済的諸関係とその発展によって説明すべきものであって、その逆ではない、ということである。」 (第8巻,568)
。
「コンスタンティノープルの領有をめぐる西ヨーロッパとロシアの闘争は、ビザンティン精神が西欧文明のまえに倒れるか、それとも両者の対立がこれまでにないほど恐ろしい、圧倒的な形態でよみがえるか、という問題をふくんでいる。コンスタンティノープルは、西方と東方のあいだにかけられた黄金の橋である。そして、西欧文明は、この橋を渡らないでは、太陽のように世界を経めぐることはできない。そして、西欧文明は、ロシアとたたかわないでは、この橋を渡ることができない。」 (第9巻,228)
「だが、この新しい歴史観は、社会主義的見解にとってこのうえなく重要であった。それは、従来のいっさいの歴史は階級対立と階級闘争のなかを動いていること、支配する階級と支配される階級、搾取する階級と搾取される階級とがつねに存在したし、大多数の人間はいつも激しい労働とほとんど楽しみのない暮しを宣告されていたことを証明した。なぜそうなのか?それは、人類の以前のすべての発展段階のもとでは、生産はまだきわめてわずかしか発展していなかったので、歴史的発展はこういう対立的形態でしか起こりえなかったし、歴史的進歩は、一般にわずかな特権的少数者の活動にまかせられていた一方、大多数者は、自分のための乏しい生計の資と、おまけに特権者のますます豊かになりゆく生計の資とを稼ぎだす憂き目におかれつづけたという、簡単な理由によるのである。」 (第19巻,112)
「大工業が資本主義的生産様式のなかにまどろんでいた諸矛盾を激しい対立へと発展させた結果、この生産様式の崩壊がせまっていることがいわば手にとるように明白になっており、新しい生産力そのものが、この生産力の現在の発展水準に照応する新しい生産様式を採用しないかぎり、これを維持することもいっそう発展させることもできないようになっている。また、これまでの生産様式によって生みだされ、たえず対立を深めながら再生産されている二つの階級のあいだの闘争は、すべての文明国をとらえ、日ごとにいっそう激烈になっている。そして、この歴史的連関や、この連関によって必然的なものになっている社会改造の諸条件や、やはりこの連関によって条件づけられるこの改造の輪郭にたいする洞察も、すでに獲得されている。」 (第20巻,275)
「対立」と「移行」を、参照してください。
「有機的生命においては、細胞核の形成をもって同じく生きた蛋白質の分極化とみなすことができる。そして進化論が立証しているように、まさにこのような簡単な細胞から、一方では最も複雑な植物にいたるまでの進歩と、他方では人間にいたるまでの進歩とが、すべて遺伝と適応との不断の闘争の結果としてなしとげられている。「肯定的」と「否定的」というようなカテゴリーがこのような発展〔進化〕形態にはほとんど適用できないものであることがここで明らかになる。遣伝を肯定的・保存的な側面、適応を否定的な、遣伝によって受けつがれたものをたえず破壊してゆく側面ととらえることもできれば、同様に適応を創造的・能動的・肯定的な活動、遺伝を抵抗的・受動的・否定的な活動ととらえることもできる。しかしながら、歴史においては進歩は現存するものの否定として登場してくるので、そのようにここでもまた―純粋に実践的な根拠から―適応を否定的な活動としてとらえるほうがよい。」 (第20巻,520)
「氏族制度は、どんな内部対立も知らない社会のなかから生じてきたものであって、このような社会にだけ適合したものであった。それは、世論のほかにはどういう強制手段ももっていなかった。ところが、いまここに成立したのは、そのすべての経済的生活諸条件のために、自由人と奴隷、搾取する富者と搾取される貧者に分裂せざるをえなかった社会、これらの対立をふたたび和解させせることができないばかりか、それをますます絶頂にまで押しすすめざるをえなかった社会であった。このような社会は、これらの階級相互のたえまない公然たる闘争のなかで生活するか、それともまた、外見上相争う諸階級のうえに立って、彼らの公然たる衝突を抑圧し、階級闘争を、せいぜい経済的な分野で、いわゆる合法的な形態でたたかわせる、第三の力の支配のもとにおかれるか、そのどちらかでしかありえなかった。氏族制度はその寿命をすぎていた。それは、分業とその結果である諸階級への社会の分裂とによって打ち砕かれていた。」 (第21巻,168)
「私がマンチェスターでまざまざと見せつけられたのは、これまでの歴史叙述ではなんの役割も演じていないか、あるいはとるにたらない役割を演じているにすぎない経済的諸事実が、すくなくとも近代世界では決定的な歴史的力であるということ、この経済的諸事実が今日の階級対立の成立する土台であること、大工業のおかげでこれらの階級対立が十分に発遠した国々、したがってとりわけイギリスでは、この階級対立はさらに政党形成の、党派闘争の土台となっており、こうしてまた全政治史の土台になっているということである。」 (第21巻,216)
「階級闘争」にかんしていえば、これはたんに「中世」にさかのぼるだけでなく、古代の、アテナイの、スパルタの、ローマの共和制の国内紛争にまでさかのぼるのである。これらの紛争のすべては階級闘争であった。原始共同体が解体してからあと、それぞれの社会を構成しているさまざまな階級間の闘争は、つねに歴史的進歩の大きい原動力であった。この闘争はこれらの階級自身がなくならないかぎり、つまり社会主義の勝利ののちでなければ消滅しないであろう。」 (第22巻,476)
「われわれはここに小作人と地主とのあいだの生死を賭けたじっさいの闘争を見るのだ。すなわち、どの程度まで地代は、土地の相違にたいする支払のほかに、地主によってではなく小作人によって土地に投ぜられ資本の利子をも含んでいるべきか、ということについての闘争を見るのだ。ただ、相争う諸説のかわりに、相争う諸事実とそれらの隠された背景をなしている現実の諸対立とを置くことによってのみ、経済学をひとつの実証的な科学に転化させることができるのだ。」 (第32巻,144)
「君の言うとおり、ことがいまほど順調にすすんでいるときはないし、僕たち、つまりモールと僕がもう何年もまえに、ばかな民主主義者の連中が反動だの、人民が奴らにたいして無関心だのと嘆いたときに、この反動こそ過去一八年間の、とてつもない工業発展をもたらすものにほかならないと予測し、また労働と資本とのあいだの対立の尖鋭化、すなわち激しい階級闘争が、その結果生じるだろうと明言した。まさにそのとおりになったのだ。」 (第32巻,493)
「有産階級の集合権力にたいするたたかいでプロレタリアートが階級として行動できるのは、有産階級によってつくられたすべての旧来の党に対立する別個の政党に自分自身を組織する場合だけである。―プロレタリアートをこのように政党に組織することは、社会革命とその終局目標、階級の廃止との勝利を確保するために不可欠である。経済闘争によってすでになしとげられた労働者の勢力の結合はまた、彼らの搾取者の政治権力にたいする彼らの闘争においても、この階級の手中のてことして役だたなければならない。土地の貴族と資本の貴族は、彼らの経済的独占を永久化し、労働を隷属させるために、彼らの政治的特権を利用するのを常としている。それゆえ、政治権力の獲得はプロレタリアートの第一の義務となっている。」 (第33巻,425)
「アメリカにおける階級間のたたかいの勃発が全世界のブルジョアにとって意味するところは、ロシアのツァーリズムの崩壊がヨーロッパの強大な軍事的諸君主制にとって意味するであろうところと同じです―すなわち彼らの支柱の倒壊です。なぜならばアメリカは、やはり全ブルジョアの理想だったからです。それは富んだ、広大な、膨張しつつある国で、純粋にブルジョア的な制度をもち、封建的な遺制や君主制の伝統の影響がなく、恒久的な父子伝来のプロレタリアはおりません。ここではだれもが、資本家でなくても、とにかく、自分の資力によって、自分の計算にもとづき、生産や商業を営む人間になることができたのです。そして、そこには、今のところまだ、対立する利害関係をもった諸階級が存在していなかったので、わが国の―そして貴国の―ブルジョアは、アメリカは階級対立や階級闘争を超越していると考えていました。この幻想はいま破れて、この地上最後のブルジョアの天国は急速に煉獄に変わりつつあり、それがヨーロッパのように地獄に変わることを妨げることができるのは、新しく巣立ったばかりのアメリカのプロレタリアートの急速な成長だけなのです。彼らが舞台に登場した仕方はまったく異例です。六か月まえにはまだだれもそんなことは予想していなかったのに、いま彼らは突然、全資本家階級が狼狽するほどの組織された大衆となって現われているのです。」 (第33巻,431)
|
|
「対立物」の用例
『電子書庫・書籍・書類・ノート』の、「情報検索」の機能を用い、「対立物」の用例を、検討します。
「対立物」の文字列は、『本文』中の、96ページ、117箇所に、検出されます。
「対立物」として、「〜と〜は対立物」や「〜の対立物は〜」などのように、記述されたものがあります。
そのような「対立物」は、以下の24対が、見出されます。
表中の「競争と独占,1/1」は、「競争と独占」が1ページ、「独占と競争」が1ページ、見出せることを示します。
使用価値と交換価値,2 |
プロレタリアートと富,1/1 |
競争と独占,1/1 |
仮象と本質,1 |
主観主義と客観主義,1 |
唯心論と唯物論,1 |
行政権と司法権,1 |
普遍性と単個性,1 |
同一性と区別,1 |
直線と曲線,1 |
権力と自由,1 |
能動と受動,1 |
私と世界,1 |
君主と市民社会,1 |
中央集権と封建制,1 |
共産主義と私有制度,1 |
資本家と賃金労働者,1 |
資本と賃労働,1 |
企業者利得と賃労働,1 |
貧困と私有財産,1 |
集団的所有と私有,1 |
利子生み資本と機能資本,1 | |
|
実現された労働と生きている労働,1 |
特殊的労働と抽象的一般的労働,1 |
|
表にあげた「対立物」に関して、「相互浸透」や「闘争」に係る記述は、『本文』中に、見出せません。
見出せるのは、「対立物への分裂、それらの闘争と解決」や「対立物の相互浸透の法則」など、一般的記述です。
従って、「対立物」の「相互浸透」や「闘争」に関し、実例から学ぶことは、困難です。
「対立」の用例
「相互浸透」や「闘争」に関する実例は、文字列「対立」に着目すると、見出されます。
「対立」は、『本文』中の、1660ページ、2593箇所に、検出されます。
以下の表に、文字列「対立」の用法を、示します。
対立する,383,449 |
対立して,297,340 |
対立を,214,250 |
との対立,188,208 |
対立の,172,201 |
対立は,158,177 |
対立が,155,172 |
対立させ,131,142 |
対立に,117,130 |
階級対立,110,138 |
対立物,96,117 |
な対立,95,100 |
対立的,65,72 |
対立した,64,74 | | |
|
|
「対立する,383,449」は、文字列「対立する」を、383ページ、449箇所、検出されることを示しています。
「対立」するものは、「資本と労働との対立は」や「商品と貨幣との対立が」などのように、表現されています。
そのような「対立」するものを、以下の表に、133例を、示します。
イギリスとフランス |
オーストリアとロシア |
パリっ子と田舎者 |
|
家族と氏族 |
族内婚と族外婚 |
貴族と農奴 |
貴族と平民 |
議会と国民 |
急進派と王党派 |
自由民と奴隷 |
領主と農奴 |
同職組合の親方と職人 |
封建貴族と市民階級 |
君主と市民社会 |
有産階級と無産階級 |
労働者大衆と資本家 |
国家と市民社会 |
政府と国民 |
国家と宗教 |
憲法と立法権 |
自由主義者と社会主義者 |
信者と異教徒 |
正統信仰者と異端者 |
|
|
軍と住民 |
軍隊と警官 |
軍隊と人民 |
陸軍と海軍 |
都市と地方 |
都市と農村 |
土地貴族と工場貴族 |
貧富 |
全体の利害と個人の利害 |
過去と未来 |
貧困と衰退 |
快楽と苦痛 |
執行権力と立法権力 |
支配階級と非支配階級 |
搾取する者と搾取される者 | |
|
抑圧するものと抑圧されるもの |
過度に労働させられる者と無為に過ごす者 |
積極的なものと消極的なもの |
アイルランド人労働者とイギリス人労働者 |
ブルジョアジーとプロレタリアート
|
観念性と現実性 |
帰納と演繹 |
原因と結果 |
真理と誤謬 |
現実的と観念的 |
肯定と否定 |
此岸と彼岸 |
魂と肉体 |
自律と他律 |
神と世界 |
神と人間 |
精神と肉体 |
信仰と理性 |
創造者と被造物 |
精神と物質 |
人間と自然 |
善と悪 |
善人と悪人 |
必然性と偶然性 |
自由と必然性 |
権力と自由 |
同一性と区別 |
普遍的と特殊的 |
唯心論と唯物論 |
唯物論と理神論 |
理性と感性 |
平等と不平等 |
正義と不正 |
教養と無教養 |
大衆と精神 |
精神労働と肉体労働 | 原則と立場 |
正と負 |
正負電気 |
南北 |
北極と南極 |
東と西 |
牽引と反発 |
電池と電解槽 |
静電気と動電気 |
消化と排泄 |
無限と有限 |
単位と多 |
使用価値と価値 |
使用価値と交換価値 |
商品と貨幣 |
商品資本と貨幣資本 |
企業者利得と利子 |
金貸資本家と産業資本家 |
個人企業と社会企業 |
個人資本と社会資本 |
固定資本と流動資本 |
固定的と流動的 |
産業利潤と利子 |
資本と賃労働 |
資本と労働 |
資本家と労働者 |
資本家と賃労働者 |
総労働と総資本 |
貸付資本家と生産資本家 |
大資本家と小資本家 |
可変資本と不変資本 |
生産資本と流動資本 |
借家人と家主 |
金融家と地主 |
集団的所有と私有 |
地代と利潤 |
独占と競争 |
買いと売り |
買い手と貨幣 |
買い手と売り手 |
販売と購買 |
消費者と生産者 |
製造業者と地主 |
分業と自給自足 |
労働と機械資本 |
労働者と機械全体 |
労働手段と労働者 |
工業と科学 |
工業と海上貿易 | | |
|
金持の不労者と労働する貧乏人 |
資本の利益と賃労働の利益 |
製造工業者たちの利益と農業家の利益 |
各個の資本家の利害と資本家階級の利害 |
部分的過剰生産と普遍的過剰生産 |
労働をしない富と労働をする貧困 |
労働者の階級的利益と資本家のそれ |
労働者階級の民主主義と中間階級の自由主義
|
個々の工場内における生産の組織化と全体としての社会における生産の無政府状態
|
|
以下の表に、「対立」するものの、出現頻度を、示します。
資本と労働,27/18 |
商品と貨幣,19/2 |
使用価値と交換価値,17/1 |
固定資本と流動資本,17/3 |
資本家と労働者,12/10 |
原因と結果,11 |
買い手と売り手,10/2 |
資本と賃労働,9/4 |
人間と自然,7/2 |
使用価値と価値,6 |
牽引と反発,5/1 |
精神と物質,4 |
同一性と区別,4 |
南北,4 |
資本家と賃労働者,4/1 |
可変資本と不変資本,4/7 |
販売と購買,4/9 |
生産者と消費者,4/1 |
商品資本と貨幣資本,3/1 |
真理と誤謬,2 |
肯定と否定,2 |
精神と肉体,2/1 |
創造者と被造物,2 |
善と悪,2 |
必然性と偶然性,2/1 |
正と負,2 |
北極と南極,2 |
産業利潤と利子,2/3 |
買いと売り,2/7 |
神と世界,1/1 |
大衆と精神,1/2 |
企業者利得と利子,1/7 |
地代と利潤,1/5 | | |
|
|
|
「対立」の内容が、「社会的対立」のように、「〜的対立」として、表現されています。
社会的対立,8 |
両極的対立,7 |
宗教的対立,4 |
経済的対立,4 |
現実的対立,3 |
世界史的対立,3 |
階級的対立,3 |
政治的対立,2 |
古典的対立,2 |
個人的対立,2 |
歴史的対立,2 |
教義的対立,2 |
哲学的対立,2 |
質的対立,2 |
論戦的対立,2 |
現世的対立,1 |
絶対的対立,1 |
全般的対立,1 |
対極的対立,1 |
党派的対立,1 |
民族的対立,1 |
論理的対立,1 |
思弁的対立,1 |
批判的対立,1 |
神学的対立,1 |
本質的対立,1 |
内的対立,1 |
直接的対立,1 |
プロレタリァ的対立,1 |
ブルジョア的対立,1 |
決定的対立,1 |
自然的対立,1 |
近代的対立,1 |
意識的対立,1 |
相互的対立,1 |
国家的対立,1 |
思想的対立,1 | | |
|
|
|
「対立」の性質が、「決定的な対立」のように、「〜的な対立」として、表現されています。
決定的な対立,6 |
敵対的な対立,4 |
内的な対立,4 |
両極的な対立,3 |
対極的な対立,2 |
宿命的な対立,2 |
必然的な対立,2 |
致命的な対立,2 |
一般的な対立,2 |
固定的な対立,2 |
直接的な対立,2 |
原則的な対立,2 |
民族的な対立,2 |
法的な対立,1 |
反省的な対立,1 |
非現実的な対立,1 |
宗教的・神学的な対立,1 |
組織的な対立,1 |
抽象的な対立,1 |
不可避的な対立,1 |
非妥協的な対立,1 |
大衆的な対立,1 |
相対的な対立,1 |
悲劇的な対立,1 |
神秘的な対立,1 |
全面的な対立,1 |
究極的な対立,1 |
意識的な対立,1
|
|
|
「対立」の性質が、「敵対的に対立」のように、「〜的に対立」として、表現されています。
敵対的に対立,6 |
根本的に対立,3 |
非妥協的に対立,3 |
対極的に対立,3 |
直接的に対立,2 |
原則的に対立,1 |
実践的に対立,1 |
宗教的に対立,1 |
一面的に対立,1 |
全面的に対立,1 |
抽象的に対立,1 |
決定的に対立,1 |
論理的に対立,1 |
社会的に対立,1 |
対偶式的に対立,1 |
両極的に対立,1 |
固定的に対立,1 |
外的に対立,1 |
| |
|
|
|
「資本と労働」に係る、弁証法的な考察が、見出されます。
「資本と労働のあいだのきわめてむつまじい協調の一こま」 (第16巻,338)
「資本と労働との世界史的対立」 (第16巻,66)
「資本と労働とのあいだの階級闘争」 (第23巻・資本論T,16)
「労働と資本とのあいだの対立の尖鋭化、すなわち激しい階級闘争」 (第32巻,493)
「資本の条件は賃労働である。賃労働は、もっぱら労働者相互間の競争のうちにたもたれている。」 (第4巻,487)
「賃労働なしに資本は存在できないのである。」 (第6巻,538)
「すなわち資本対資本、労働対労働等の対抗」 (第1巻,560)
「労働の資本への現実的転化の過程」 (第26巻,504)
「商品流通のこの最後の産物は、資本の最初の現象形態である。歴史的には、資本は、どこでも最初は貨幣の形態で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として、土地所有に対立して登場する。」 (第20巻,209)
「マルクスはついで、貨幣が資本に転化する過程を研究して、まず最初に、貨幣が資本として流通する形態は、貨幣が一般的な商品等価物として流通する形態を逆にしたものであることを見いだす。」 (第20巻,210)
「つよい労働者はよわい労働者を、大きな資本は小さな資本を、大きな土地所有は小さな土地所有を、市場から駆逐する。」 (第1巻,566)
「資本は土地と労働を前提し、また労働はすくなくとも土地を前提し、たいていの場合に資本をも前提する。」 (第1巻,556)
「私的所有のあり方というのは、労働、資本および両者の関係のことである。
これらの項が経めぐっていくはずの運動は、
第一には ― 両者の直接的な、または間接的な一体性である。
資本と労働ははじめはまだ一体。次いで分けられて、余所ものどうしのあり方になりはするものの、しかし相互に肯定的な条件として助長し合い促進し合う。
〔第二には ― 〕両者の対立。相互に排除し合う。労働者は資本家が、そして逆に資本家は労働者が己れの非存在であることを知り、それぞれ相手からその存在をもぎ取ろうとつとめる。
〔第三には ― 〕 それぞれのそれ自身にたいする対立。
資本=蓄積された労働=労働。そのようなものとして自身と自身の利息へ分かたれ、またこの利息のほうはこれはこれで利息と利得へ分かたれる。資本家の余すところなき犠牲。彼は労働者階級へ落ち込むとともに、労働者は ― ただし例外的にのみ ― 資本家となる。資本の契機、資本の費用としての労働。したがって労賃は資本の一つの犠牲。 労働は自身と労賃へ分かたれる。労働者自身一つの資本、一個の商品。
敵対的な相互的対立。」 (第40巻,449)
「無所有と所有との対立は、労働と資本の対立としてつかまれないかぎりは、まだかかわりのない対立であり、その能動的な関係、その内面的な間柄においてとらえられていない対立、まだ矛盾としてとらえられていない対立である。」 (第40巻,454)
「利子は資本を、労働にたいする対立においてではなく、逆に、労働にたいする関係なしに、単なる資本家対資本家の関係として、表示する。」 (第26巻・剰余価値学説史V,637)
「たとえば土地-地代、資本-利子、労働-労賃では、剰余価値の種々な形態や資本主義的生産の諸姿態が、互いに、疎外されてではなく、無縁かつ無関心に、単に別々なものとして、対立なしに、相対しているからである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,648)
「資本が急速に増大するにつれて労働者の所得がふえるにしても、それと同時に労働者と資本家をへだてる社会的溝も深くなるし、それと同時に労働を支配する資本の力、資本への労働の依存も強まるのである。」 (第6巻,411)
「資本の増大=資本の蓄積と集積。資本が蓄積され、集積されるのに正比例して、次のようになる。
労働はいっそう大規模になり、したがってまた分業が進んで、労働をいっそう単純化する。」 (第6巻,532)
|
|
「人間と自然」に係る、弁証法的な、以下の考察が、見出されます。
「地代は、土地の収穫能力、すなわち自然的側面(それはさらに、自然的基礎と人間的耕作、改良にもちいられた労働とからなる)と、人間的側面すなわち競争との関係である。」 (第1巻,554)
「私的所有の最初の結果は、生産が自然的側面と人間的側面の二つの対立した側面に分裂したことであった。すなわち人間が実らせることなしには死んだ不毛のものである土地と、ほかならぬ土地が第一の条件である人間的活動とがそれである。さらにわれわれがみたように、人間的活動はまた労働と資本に分解し、これらの側面はふたたび相互に敵対した。」 (第1巻,557)
「一八世紀は、歴史が最初からたずさわってきた大きな対立―この対立の発展が歴史を構成するのだ―、すなわち実体と主観、自然と精神、必然性と自由の対立を解決しなかった。しかし、一八世紀は、この対立の両面をきわめて鋭く、また完全に展開された形で対置し、そうすることでこの対立の廃止を必然にした。」 (第1巻,605)
「社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる。個人間の生存闘争は終りを告げる。これによってはじめて、人間は、ある意味で決定的に動物界から分離し、動物的な生存条件からぬけだして、ほんとうに人間的な生存条件のなかに踏みいる。いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによって、いまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの主人となる。これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則が、人間を支配する外的な自然法則として、人間に対立してきたが、これからは、人間が十分な専門知識をもってこれらの法則を応用し、したがって支配するようになる。これまでは、人間自身の社会的結合が、自然と歴史とによって押しつけられたものとして、人間に対立してきたが、いまやそれは、人間自身の自由な行為となる。これまで歴史を支配してきた客観的な、外来の諸力は、人間自身の統制に服する。」 (第19巻,223)
「すなわち、われわれが自然を支配するのは、ある征服者がよそのある民族を支配するとか、なにか自然の外にあって自然を支配するといったぐあいに支配するのではなく、そうではなくてわれわれは肉と血と脳髄ことことごとく自然のものであり、自然のただなかにあるのだということ、そして自然にたいするわれわれの支配はすべて、他のあらゆる被造物にもましてわれわれが自然の法則を認識し、それらの法則を正しく適用しうるという点にあるのだ、ということである。
そして実際にわれわれは日ごとに自然の法則をいっそう正しく理解し、自然の昔ながらの歩みにわれわれが干渉することから起こる近い将来また遠い将来の結果を認識してゆくことをまなびつつある。ことに今世紀にはいって自然科学が長足の進歩をとげてからというもの、われわれはしだいに、すくなくともわれわれの最も日常的な生産行動については、そこから当然生じてくるはずの遠い将来の自然的結果をも知ってこれを支配することを習得しうる立場になってきている。しかしそうなればなるほど、人間はますますまたもや自分が自然と一体であるということを感じるばかりか知るようにもなるであろうし、また古典古代の没落以来ヨーロッパで抬頭して、キリスト教においてその最高度の完成を見た、あの精神と物質、人間と自然、魂と肉体との対立という不合理で反自然的な観念は、ますます不可能になってゆくであろう。」 (第20巻,492)
「しかし、まもなく、自然の諸力とならんで、社会的諸力も作用するようになる。この社会的諸力も、自然の諸力そのものと同じように外的なものとして、またはじめには同じように不可解なものとして、人間に対立し、外見上同じ自然必然性をもって人間を支配する。最初は自然の神秘的な諸力を反映していただけの空想的な形象が、その結果、社会的な属性をもつようになり、歴史的な諸力の代表者となる。」 (第20巻,325)
「全盛期における氏族制度は、きわめて未発達な生産を、したがって、広大な領域におけるきわめて稀薄な人口を前提する。だから、それは、外的なものとして人間に対立する不可解な外部の自然によって、人間がほとんど完全に支配されている状態を前提する。」 (第21巻,100)
「偶然とは一つの連関の一方の極にすぎない。その他方の極は必然性とよぼれる。自然のなかでもやはり偶然が支配しているように見えるが、われわれは、自然においては、この偶然をつうじて自己を貫徹する内的必然性と法則性を、それぞれの分野でずっと以前に立証した。しかし、自然にあてはまることは、社会にもあてはまる。ある社会的活動、ある一連の社会的過程が、人間の意識的統制に服するにはあまりにも強力になり、人間の手におえなくなればなるほど、それが純然たる偶然にゆだねられているように見えれば見えるほど、それに固有な内在的諸法則は、あたかも自然的必然性をもってするかのように、ますますこの偶然をつうじて自己を貫徹するのである。」 (第21巻,173)
|
|
なお、「需要と供給」は、『全集』の115ページにわたって、見出されます。
その中で、「需要」と「供給」が、「対立物」と記述されているのは、1ページのみです。
「需要と供給の対立」に、該当する表現は、見出されません。
「需要と供給」に関して、「需要と供給の関係」や、「需要と供給との一致」の表現が、見出せます。
「諸商品の需要と供給との関係では、第一に、使用価値と交換価値との関係、商品と貨幣との関係、買い手と売り手との関係が再現する。第二には、生産者と消費者との関係が再現する。」 (第25巻・第1分冊,203)
|
|
「原因」と「結果」
「原因と結果」 「対立」 11
「原因と結果」 34
「原因」 or 「結果」 5264
「原因」 and 「結果」 460
「原因」 1322
「結果」 4402
なお、「需要と供給」は、『全集』の115ページにわたって、見出されます。
「反対物」
「対立物」の同義語に、「反対物」があります。
「反対物」の文字列は、『本文』中に、79ページ、89箇所に、検出されます。
「反対物」として、「〜の反対物が〜」や「〜が反対物である〜」などのように、記述されたものがあります。
そのような「反対物」は、以下の24対が、見出されます。
競争と独占 |
氏族とカースト |
販売と購買 |
生産と消費 |
帝政とコミューン |
運動と静止 |
真理と誤謬 |
不平等と平等 |
反発と牽引 |
愛と憎 |
全氏族制と世襲制 |
共産主義と利己主義 |
私的労働と社会的な労働 |
使用価値と価値の現象形態 |
|
|
具体的労働と抽象的人間労働 |
抽象的内面性と抽象的外面性 | |
現実的なものと非現実的なもの |
具体的労働と抽象的人間労働の現象形態
|
|
なお、「競争と独占」,「販売と購買」,「真理と誤謬」,「不平等と平等」,「反発と牽引」は、「対立」するものにも、見出せます。 |
「反対物」に関して、その「相互浸透」や「闘争」などの記述は、『本文』中に、見出せません。
「反対物」に関して、「反対物に転化」の表現が7ページに、「反対物に転倒」が2ページに、見出せます。
「反対物」に係る、弁証法的な考察が、見出されます。
「競争と独占」に関して
「しかし、われわれがみな知っているように、競争は封建的独占から生じたのである。だから、本来、競争が独占の反対物であったのであって、独占が競争の反対物であったのではない。それゆえ、近代的独占はたんなる反定立ではなくて、反対に、これこそ正真正銘の総合なのである。」 (第4巻,169)
「生産と消費」に関して
「だから、この消費的生産は生産と消費との直接的統一であるとはいえー本来の生産とは本質的に違うものである。生産が消費と一致し、消費が生産と一致する直接的統一性は、生産と消費との直接的二元性を存続させるのである。こうして、生産は直接に消費であり、消費は直接に生産である。それぞれが直接にその反対物である。」 (第13巻,618)
「販売と購買」に関して
「 これまでわれわれは、W-Gを販売として、商品の貨幣への転化として考察してきた。だが、もしわれわれが他の極の側に立つならば、同じ過程はむしろG-Wとして、購買として、貨幣の商品への転化として現おれる。販売は必然的に同時にその反対物である購買であって、過程を一方の側から見れば販売であり、他方の側から見れば購買である。言いかえれば、現実にこの過程が区別されるのは、ただW-Gではイニシァチブが商品または売り手の極から発し、G-Wではそれが貨幣または買い手の極から発するからにすぎない。」 (第13巻,72)
「運動と静止」に関して
「弁証法的な見解からすれば、運動がその反対物である静止によって表現されうるということには、まったくなんの困難もない。すでに見てきたように、この見解にとっては、この対立全体は相対的なものにすぎず、絶対的な静止、無条件的な平衡というものは存在しない。個々の運動は平衡に達しようとし、全体としての運動はふたたび平衡を揚棄する。だから、静止や平衡が現われるのはある局限された運動の結果であって、この運動はそれの結果によって測ることができ、この結果で表現することができるということ、そしてこの結果から出発して、この運動をふたたびなんらかの形態で復活させることができるということは、いうまでもない。」 (第20巻,64)
「不平等と平等」に関して
「これらの君主たちは、必然的に人民の抑圧者となり、この抑圧を強めてゆき、ついに、絶頂にまで押しすすめられた不平等がふたたびその反対物に転化して、平等の原因となる点にまでいたる。すなわち、専制君主の前では万人が平等である、つまり平等にゼロである。」 (第20巻,145)
|
|
「反対」は、『本文』中の、4145ページ、5345箇所に、検出されます。
「反対」の前後の文字列に注目し、文字列「反対」の用法の頻度を、以下の表に、示します。
〜に反対,1430,1673 |
反対し〜,915,1040 |
反対に〜,845,879 |
〜の反対,750,820 |
反対の〜,748,813 |
〜に反対し,744,840 |
反対する〜,542,575 |
〜に反対する,461,488 |
〜は反対,461,475 |
正反対,260,272 |
反対派,240,338 |
反対で〜,221,227 |
反対者,167,185 |
〜と反対,139,141 |
反対物,79,89 |
〜的反対,42,54 |
反対が〜,42,43 |
反対は〜,40,41 |
〜的に反対,21,21 |
|
|
|
「対決」
「対立」や「反対」の類似語として、「対決」があります。
『本文』中に、「対決」の文字列は、42ページ、52箇所に、検出されます。
「対決」の用法として、「イギリスがロシア海軍と対決する」や「敵と対決する」などが、見出されます。
なお、「対決物」や「政治対決」の文字列は、検出されません。
矛盾
弁証法の主要法則として、「矛盾による発展または否定の否定」が、見出せます。
自然や社会の発展を、「矛盾」との連関で認識することは、弁証法的思考において、初歩的な方法だと、思われます。
『全集』において「矛盾」の用語は、1279ページにわたって、見出せます。
マルクス・エンゲルスが、どのような意味や用法で「矛盾」を用いたか、『全集』から抜粋して、学ぶことにします。
矛盾とは
矛盾とは、何かに関して、「矛盾とは、・・・を言う」の形式の定義は、『本文』において、見出せません。
「矛盾」の定義と関連する用語として、「二律背反」・「撞着」・「背理」・「不合理」などが、考えられます。
「二律背反」は20ページ、「撞着」は50ページ、「背理」は41ページ・「不合理」は115ページに、見出せます。
「矛盾」と同一ページに、「二律背反」は8、「撞着」は18、「背理」は15・「不合理」は22、箇所に見出せます。
「矛盾」の定義に関連すると、想定できる記述は、以下のページに、見出せます。
「二律背反、すなわち解決不可能な矛盾」 (第20巻,50)
「したがって、ここに二つの経済法則の矛盾、二律背反があることになる。」 (第4巻,578) (第21巻,185)
「ここに引用した二つの箇所の思想内容は、矛盾すなわち背理であり、したがってそれは現実の世界には起こりえない、という命題に要約される。」 (第20巻,125)
「矛盾という不合理なもの」 (第20巻,124)
|
|
|
「矛盾と〜」、「矛盾や〜」
「矛盾」は、「矛盾と対立」や「矛盾や対立」など、他の用語と、並立して、使用されています。
以下に、その例と箇所を、示します。
「矛盾と対立」 (第25巻・資本論Vb,1129)
「矛盾や対立」 (第40巻,176)
「対立と矛盾」 (第4巻,67)、(第20巻,45)、 (第26巻・剰余価値学説史U,701)、
(第26巻・剰余価値学説史V,411)、(第40巻,85)
「矛盾対立」 (第1巻,395)、(第41巻,520)
「諸矛盾と諸対立」 (第26巻・剰余価値学説史U,675)
「諸対立と諸矛盾」 (第21巻,70)、 (第21巻,72)
「諸対立や諸矛盾」 (第23巻・資本論Tb,733)、 (第26巻・剰余価値学説史U,676)
「不合理で矛盾」 (第17巻,136)
「矛盾と背理」 (第25巻・資本論Vb巻,740)
「不合理な矛盾、真の背理」 (第20巻,127)
「自己矛盾、非真理」 (第1巻,524)
「矛盾と自家撞着」 (第26巻・剰余価値学説史V
,281)
「諸矛盾や前後撞着」 (第26巻・剰余価値学説史T,188)
「矛盾と撞着」 (第11巻,499)
「一連の前後撞着、解決されない矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史T,76)
「矛盾と首尾一貫性のなさ」 (第39巻,263)
「矛盾、非一貫性」 (第27巻,487)
「矛盾やうそ」 (第28巻,456)
「矛盾やうそやふしぎなこと」 (第28巻,488)
「矛盾や虚偽」 (第28巻,167)
「矛盾や二枚舌」 (第8巻,530)
「大言壮語と矛盾」 (第38巻,41)
「矛盾と誤り」 (補巻3,XIV)
「逃げロ上の矛盾や不十分さ」 (第25巻,1078)
「矛盾と中途半端」 (モールと将軍,485)
「不徹底と矛盾」 (第1巻,399)
「矛盾や不確実さや不明瞭さ」 (第27巻,266)
「矛盾、不明瞭、支離滅裂」 (第22巻,456)
「不確実で、矛盾」 (第19巻,472)
「諸矛盾や不自然さ」 (補巻1,137)
「矛盾や不可能事」 (第20巻,54)
「矛盾や衝突」 (第3巻,296)
「矛盾と困難」 (第16巻,207)
「矛盾と敵対」 (第16巻,216)
「矛盾と敵対関係」 (第23巻・資本論Ta,654)
「矛盾や敵対関係」 (第23巻・資本論Ta,577)
「矛盾と混乱」 (第24巻・資本論U,276)
「矛盾や混同」 (第26巻・剰余価値学説史V,5)
「矛盾と無秩序」 (第2巻,584)
「矛盾と無思想」 (第26巻・剰余価値学説史T,76)
「紛糾と矛盾」 (第34巻,82)
|
|
|
様々な「矛盾する」
「矛盾」は、文中において、文字列「矛盾する」を含む形式で、用いられています。
それは、文字列「矛盾する」の前後に、様々な文字列を挟んで、用いられています。
それらの様式と、用いられているページ数を、以下に示します。
〜は〜と矛盾する,77 |
〜矛盾する〜,54 |
〜と矛盾する〜,34 |
〜は〜に矛盾する,31 |
〜が〜と矛盾する,20 |
〜に矛盾する〜,21 |
〜が〜に矛盾する,14 |
〜と〜とが矛盾する,7 |
矛盾する〜,7 |
〜は矛盾する〜,4 |
〜は〜矛盾する,3 |
〜とは矛盾する〜,3 |
〜が矛盾する〜,3 |
〜は矛盾する,2 |
〜が〜とは矛盾する,2 |
〜は矛盾する,2 |
〜に矛盾する,2 |
〜は〜とも矛盾する,1 |
〜と〜と矛盾する,1 |
〜と〜とは矛盾する,1 |
〜と〜は矛盾する,1 |
〜と〜に矛盾する,1 |
〜に〜は矛盾する,1 |
〜とは矛盾する,1 |
|
|
|
「矛盾する」の用例
「矛盾」の用語は、文中において、どの様に使用されているかの用例から、その用法と意味を、学ぶことができます。
「〜は〜と矛盾する」
「刑罰、強制は人間的ふるまいと矛盾する」 (第2巻,190)
「そういうことは、経済学のあらゆる法則と矛盾する」 (第6巻,417)
「地方および州自治は、政治的・国民的中央集権化と矛盾するものではない」 (第7巻,258)
「金銀の個別的使用価値は、それらの経済的機能と矛盾することはない」 (第13巻,132)
「質屋は、私人による労働者の搾取で、自分の労働用具を所有し信用をうける労働者の権利と矛盾するから、というのであった」 (第17巻,590)
「高利は『永遠の正義』や、『永遠の公正』や『永遠の相互扶助』やその他の『永遠の真理』と矛盾する」 (第18巻,210)
「それは利潤率平均化の法則と矛盾する」 (第25巻・資本論Va,368)
「それは商業資本の本質と矛盾する」 (第25巻・資本論Va,368)
「こうしたことは、これら商品の使用価値と矛盾する」 (第26巻・剰余価値学説史T
,277)
「土地所有と地代は労働時間による商品価値の規定と矛盾する」 (第26巻・剰余価値学説史U,214)
「〜矛盾する〜」
「相矛盾する二つの思考」 (第4巻,132)
「きわめて矛盾する報道」 (第6巻,123)
「相矛盾する主張」 (第9巻,289)
「相矛盾する訓令」 (第12巻,114)
「相矛盾する諸要求」 (第13巻,29)
「一見矛盾するような法則」 (第13巻,100)
「相矛盾する諸勢力」 (第13巻,405)
「相矛盾する二つの傾向」 (第16巻,306)
「相矛盾する利害」 (第18巻,586)
「相矛盾する多くの可能な決定」 (第20巻,118)
「自己矛盾する要求と行為」 (第40巻,257)
「〜に矛盾する〜」
「相互に矛盾するこれらの価値評量」 (第4巻,71)
「相互に矛盾する概念」 (第4巻,73)
「たがいに矛盾する諸要素」 (第4巻,507)
「たがいに矛盾する二つの表決」 (第5巻,178)
「たがいに矛盾するいろいろな報告」 (第5巻,179)
「たがいに矛盾するもろもろの意志」 (第6巻,196)
「相互に矛盾する二つの目的」 (第15巻,139)
「一般規約および細則に矛盾する条項」 (第16巻,521)
「これらの命題に矛盾する現実」 (第20巻,17)
「永遠の理性に矛盾するもの」 (第20巻,266)
「互いに矛盾する工場法と工場法拡張法と作業場法」 (第23巻・資本論Ta,654)
「互いに矛盾するいろいろな口実」 (第28巻,167)
「互いに矛盾するニュース」 (第28巻,232)
「互いに矛盾する三つか四つの違った理論」 (第30巻,213)
「互いに矛盾する決定」 (第36巻,145)
「たがいに矛盾する嘘」 (第38巻,437)
「封建性に矛盾する商業の普遍的諸法則」 (第40巻,429)
「〜と矛盾する〜」
「旧イギリス社会の諸制度と矛盾する階級」 (第7巻,241)
「アルメニア教会信徒はもっと重みのある財布を献上し、すぐさま先のものと矛盾する勅令を獲得した。」 (第10巻,178)
「一般の通説と矛盾する細部」 (第14巻,234)
「実際の家族関係と矛盾する親族体系」 (第21巻,34)
「〜は〜に矛盾する」
「もし不自由が人間の本質であるとすれば、自由は人間の本質に矛盾する」 (第1巻,55)
「私的所有の原理は家族の原理に矛盾する」 (第1巻,341)
「これは一般的利潤率の法則に矛盾する」 (第25巻・資本論Va,389)
「その変動はこの法則に矛盾するものではない」 (第26巻・剰余価値学説史U,225)
「〜が〜と矛盾する」
「法律的形式が内容と矛盾する」 (第1巻,16)
「階級の存在が正義や平等などと矛盾する」 (第20巻,290)
「実際が理論と矛盾する」 (第21巻,182)
「価値尺度の二重化がその機能と矛盾する」 (第23巻・資本論Ta,128)
「〜が〜に矛盾する」の用例
「出版の自由が出版の本質に合致し、検閲がこの本質に矛盾する」 (第1巻,62)
「事柄の掟が法的定義に矛盾する」 (第1巻,293)
「労働そのものの価値が商品価値のこの法則に矛盾する」 (第26巻・剰余価値学説史V,119)
「労働の生産物でない「土地の価値またはその価格」が直接価値概念に矛盾する」 (第26巻・剰余価値学説史V,140)
「「実際」が「原理」に矛盾する」 (第26巻・剰余価値学説史V,229)
「〜と〜とが矛盾する〜」
「立法権の事実上のやり方と合法的なやり方とが矛盾する」 (第1巻,292)
「われわれの叙事詩の観念と、セリガ民の論理的帰結とが、たがいに矛盾する」 (第2巻,178)
「矛盾する〜」
「階級対立のこのように気持のよい捨象、矛盾する階級利害のこうしたセンチメンタルな和解、階級闘争からのこうした夢想的な超越、すなわち友愛、これが二月革命の本来の合言葉であった。」 (第7巻,19)
「〜は矛盾する〜」
「この矛盾は矛盾する諸傾向および諸現象となって現われる」 (第25巻・資本論Va
,312)
「〜は〜矛盾する」
「これら二つの、神の永遠の思念は、たがいに矛盾する」 (第4巻,568)
「〜とは矛盾する〜」
「その諸関係とはまっこうから矛盾する諸法律」 (第35巻,238)
「〜は矛盾する」
「この二つの使命は矛盾する」 (第1巻,172,)
|
|
|
様々な「矛盾した〜」
「矛盾」は、文中において、文字列「矛盾した」を含む形式でも、用いられています。
それは、文字列「矛盾した」の後に、様々な文字列を挟んで、用いられています。
それらの例と、用いられているページ数を、以下に示します。
矛盾したもの,13 |
矛盾したこと,9 |
矛盾した見解,4 |
矛盾したり,3 |
矛盾した命令,3 |
矛盾した傾向,2 |
矛盾した行動,2 |
矛盾した諸要求,2 |
矛盾した性格,2 |
矛盾した声明,2 |
矛盾した噂,2 |
矛盾した条項,1 |
矛盾した譲歩,1 |
矛盾した主張,1 |
矛盾した諸規定,1 |
矛盾した諸事実,1 |
矛盾した教義,1 |
矛盾した判決,1 |
矛盾した法律,1 |
矛盾した立場,1 |
矛盾した論評,1 |
矛盾した発言,1 |
矛盾した属性,1 |
矛盾した対立物,1 |
|
|
|
「矛盾した〜」の用例
以下に、文中における、「矛盾した〜」の用例を、示します。
「矛盾したもの」
「これらの矛盾する諸概念を、地上に実現することしかしていないのであるから、それ自体で矛盾したものであって、二つの面を、すなわち、一方は良い面、他方は悪い面を表示するのである。」 (第4巻,140)
「しかし、原理上矛盾しながらも、事実上存在するものは、これまでにもたくさんあったし、また、まさに原理上矛盾したものの事実上の存在のなかからこそ、その後の生命が発展してくるのである。」 (第7巻,211)
「この件にかんする事実報告は、はなはだ疑わしいばかりでなく、また相互にまったく矛盾したものである。」 (第22巻,458)
「一見してばかげたものに見え価値形成の諸法則に矛盾したものに見える資本主義的計算方法は、本書の第三部で説明されることになる。」 (第23巻・資本論Ta,508)
「矛盾したこと」
「公民と市民との関係についていわれていたことで右の論旨にまっこうから矛盾したことを、彼流に我がものとしているのである。」 (第3巻,559)
「したがって、プロレタリアートが「第四身分」とよばれるのは、まったく歴史と矛盾したことであった。」 (第4巻,190)
「ところが、A・スミスは、にわかに分類の基礎をすっかり変えてしまって、自分が数行前では全研究の出発点としていたことと矛盾したことを言うのである。」 (第24巻・資本論U,238)
「矛盾した見解」
「それだから、労働時間による価値量の計則についてはまったく一致している経済学者たちのあいだにも、貨幣、すなわち一般的等価物の完成した姿については、最も雑多な、最も矛盾した見解が見られるのである。」 (第23巻・資本論Ta,108)
「ロシアの実際の軍事力とその質についてはきわめて相矛盾した見解が流布している。ある人びとは過大に評価し、またある人びとは過小に評価しているが、実体は依然としてヴェールにおおわれているようにみえ、」 (補巻3,205)
「矛盾したり」
「このような外観上の例外は、一般的な法則に矛盾したりその例外をなしたりするどころではなく、じっさいただ一般的法則の適用の一つの特殊な場合でしかなかったのである。」 (第25巻・資本論Va,183)
「したがって、その生産関係の一定の形態が、生産そのものの目的―豊富―と矛盾したり、それを拘束したりすることはけっしてありえない。」 (第26巻・剰余価値学説史V,62)
「矛盾した命令」
「治安委員は、それぞれ独断で行動した。はなはだしく矛盾した命令がいりみだれて出され、そういう命令の大部分は、人心の混乱を強め、精力的な措置をいっさい阻止する点で、一致していただけであった。」 (第7巻,124)
「矛盾した対立物」
「ところで潜勢力は、存在に移行することもしないこともできるこうした自由な、無限なものであるから、したがって、存在と非存在という二つの相矛盾した対立物はその潜勢力のなかで排除しあうことはない。」 (第41巻,195)
|
|
|
様々な「〜の矛盾」
「矛盾」は、文中において、文字列「の矛盾」を含む形式でも、用いられています。
それは、文字列「の矛盾」の前に、様々な文字列を挟んで、332ページにわたり、用いられています。
それらの例と、用いられているページ数を、2ページ以上のものに限り、以下に示します。
この矛盾,93 |
との矛盾,56 |
これらの矛盾,28 |
あいだの矛盾,27 |
一つの矛盾,21 |
その矛盾,17 |
すべての矛盾,16 |
それらの矛盾,6 |
外観上の矛盾,5 |
定式の矛盾,5 |
自身との矛盾,5 |
いっさいの矛盾,4 |
自身の矛盾,4 |
自分の矛盾,3 |
外見上の矛盾,3 |
現実の矛盾,3 |
なんらの矛盾,3 |
ひとつの矛盾,3 |
現実の矛盾,3 |
理論と実践との矛盾,3 |
スミスの矛盾,2 |
たくさんの矛盾,2 |
なんの矛盾,2 |
まったくの矛盾,2 |
生産と消費との矛盾,2 |
彼の矛盾,2 |
事実上の矛盾,2 |
見かけ上の矛盾,2 |
資本主義的形態の矛盾,2 |
|
|
|
|
|
「〜の矛盾」の用例
以下に、文中における、「〜の矛盾」の用例を、示します。
「この矛盾」
「議会は国家と市民社会との、国家における、定立された矛盾である。と同時に議会はこの矛盾の解消の要求である。」 (第1巻,305)
「それを説明するために、彼は人口理論を発明したが、この理論は、富と貧困とが同時に存在するというこの矛盾と同じように、いな、それ以上に不合理なものである。」 (第1巻,561)
「すなわち、生きた労働の報酬がますます少なくなり、賃金だけで生活する労働者の大衆がますます多くなり、ますます貧しくなっていくのに、蓄積された死んだ労働の利潤はますます増大し、資本家の資本はますます巨大となっていくのである。では、この矛盾はどのように解決されるべきか?」 (第16巻,233)
「商品の内在的な矛盾―使用価値と交換価値との直接的統一としての、有用な私的労働の産物であり……また抽象的人間労働の直接的社会的な化身としての一この矛盾は、商品と貨幣とへの商品の二重化という形をとるまでは、すこしも休もうとはしない。」 (第16巻,246)
「こうして、機械の資本主義的使用には次のような内在的な矛盾がふくまれている。すなわち、資本の量があたえられたものであれば、機械の使用は、剰余価値の一方の要因である剰余価値率を大きくするために、他方の要因である労働者数を小さくするのである。機械工場で生産される商品の価値が、この商品の規制的な社会的価値になれば、たちまちこの矛盾が外に現おれてきて、またもや労働日の延長へ駆りたてるのである。」 (第16巻,282)
「しかし、生産と社会的福祉とのこの二つの積杵は結びつくことができない。なぜなら、資本主義的な生産形態は、生産力と生産物がまえもって資本に転化していないかぎり、生産力をもはたらかせず、生産物をも流通させないからである。ところが、ほかならぬ生産力と生産物そのものの過剰が、そのような転化を妨げる。この矛盾は高まって、生産様式が交換形態に反逆する、という背理になっている。」 (第20巻,667)
「との矛盾」
見たところはこれは確かに君主的原理と議会的要素の原理等々の諸要素の対立である。しかし実のところはそれは政治的国家と市民社会との矛盾であり、抽象的政治的国家の自家撞着である。」 (第1巻,332)
「この面での批判では、フーリエはいままでのところ、無比である。フーリエは上流社会の虚偽、その理論と実践との矛盾、その全生活様式の倦怠を仮借なく暴露した。」第2巻,634)
「質的には、またその形態から見れば、貨幣は無制限である、すなわち、素材的な富の一般的な代表者である。貨幣はどんな商品にも直接に転換されうるからである。しかし、同時に、どの現実の貨幣額も、量的に制限されており、したがってまた、ただ効力を制限された購買手段でしかない。このような、貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾は、貨幣蓄蔵者を絶えず蓄積のシシュフォス労働へと追い返す。」 (第23巻・資本論Ta,174)
「商品の交換価値の貨幣での独立化は、それ自身、交換過程の、商品に含まれている使用価値と交換価値との矛盾の発展の、また、それに劣らずその商品に含まれている次のような矛盾の発展の、所産である。その矛盾とは、私的個人の一定の特殊な労働が、その反対物、すなわち同等な、必要な、一般的な、そしてこの形態では社会的な労働として表わされなければならない、というのがそれである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,168)
「これらの矛盾」
「価値は、はじめは、その物の生産費と社会的効用によって、見たところ合理的にさだめられる。あとになって、価値は純偶然的な規定であって、生産費にたいしても、社会的効用にたいしても、いっこう比例しなくともよいものだということがわかる。賃金の大きさは、はじめは、自由な労働者と自由な資本家の、自由な合意によって、さだめられる。あとになって、労働者はきめられるがままになることを余儀なくされ、資本家も、これをできるかぎり低くきめるように余儀なくされていることがわかる。契約当事者の自由のかわりに、強制がやってくる。商業についても、その他の経済関係についてもおなじことである。経済学者自身も、時おり、これらの矛盾に気づき、矛盾の発展は彼らの、たがいの論争のおもな内容となっている。ところが、これらの矛盾が彼らの意識にのぼってくると、彼らみずからが何かしら部分的なすがたをとった私有財産を攻撃する。」 (第2巻,29
)
高等数学が、直線と曲線とはある事情のもとでは同じものでなければならない、という矛盾をその主要な基礎の一つにしていることは、すでに述べた。高等数学はまたもう一つ別の矛盾をなしとげる。それは、われわれの眼前で交わっている諸線が、それにもかかわらず、その交点から五、六センチメートルさきでは、すでに平行線、すなおち無限に延長してもたがいに交わることのできない線と、認められなければならない、という矛盾である。それでも高等数学は、これらの矛盾や、まだまだひどい矛盾をつかって、たんに正しい結果というだけでなく、初等数学ではまったく達成できないようか成果をなしとげるのである。」 (第20巻,126)
「あいだの矛盾」
「鋳貨としての金と価格の度量標準としての金とのあいだの矛盾は、同じようにまた、鋳貨としての金と一般的等価物としての金とのあいだの矛盾となるが、一般的等価物としての金は、たんに国境の内部でだけでなく、世界市場でも流通するのである。価値の尺度としては、金はただ観念的な金としてだけ役目を果たしたのであるから、いつも完全量目であった。」 (第13巻,91)
「一方の、資本家の手に集積された生産手段と、他方の、自分の労働力以外にはなにももたないようになった生産者との分離が完了していた。社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾は、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立となって明るみにでた。」 (第19巻,211)
「一つの矛盾」
無限性ということが一つの矛盾であり、またかずかずの矛盾にみちているのである。無限性が有限なものばかりからなりたっているということそれ自体が、すでに一つの矛盾であるが、しかも事実はそうなのである。物質的世界に限界があるとしても、やはり矛盾が生じることは、それに限界がない場合と同じである。そして、こうした矛盾をなくそうとするあらゆる試みが、すでに見たように、新しい、いっそうたちのわるい矛盾を引きおこすのである。無限性がまさに一つの矛盾であるからこそ、それは、時間と空間において終わることなく展開してゆく無限の過程なのである。矛盾をなくせば、無限性もおしまいとなるであろう。」 (第20巻,52)
運動そのものが一つの矛盾である。すでに単純な力学的な位置の移動でさえ、一つの物体が同一の瞬間に一つの場所にありながら同時に別の場所にあるということ、同一の場所にあるとともにそこにはないということによって、はじめてこれをおこなうことができるのである。そして、こういう矛盾をたえず定立しながら同時に解決してゆくことが、すなわち運動なのである。」 (第20巻,125)
「その矛盾」
「生産力と交通形態との、この矛盾は、われわれの見たように、すでにたびたび従来の歴史のなかに現われた。しかしそれは歴史の基礎を危うくするほどではなかったにせよ、それでもそのたびごとに革命となって炸裂せざるをえず、そのさい同時にその矛盾はあるいは諸衝突の総体、あるいはさまざまな階級の衝突、あるいは意識の矛盾、思想闘争等々、政治闘争等々のかたちでさまざまな副形態をとった。」 (第3巻,70)
「諸商品は、自分たちの交換価値に、このような貨幣での、まず第一に価格での、表現を与えるのであって、この価格では諸商品はすべて同じ労働の物質化として表わされ、同じ実体のただ量的にだけ違った表現として表わされる。商品の交換価値の貨幣での独立化は、それ自身、交換過程の、商品に含まれている使用価値と交換価値との矛盾の発展の、また、それに劣らずその商品に含まれている次のような矛盾の発展の、所産である。その矛盾とは、私的個人の一定の特殊な労働が、その反対物、すなわち同等な、必要な、一般的な、そしてこの形態では社会的な労働として表わされなければならない、というのがそれである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,168)
「すべての矛盾」
われわれのあらゆる発明や進歩は、物質的な力に知的な生命をあたえる一方、人間の生命を愚鈍化して物質的な力に変える結果となるようにみえる。一方における現代の工業と科学、他方における現代の貧困と衰退のこの対立、現代の生産力と社会関係のこの対立は、明白な、圧倒的な、争う余地のない事実である。ある党派はこのことを嘆き悲しむかもしれない。また別の党派は、現代の衝突をとりのぞくために現代の技術をとりのぞきたいと望むかもしれない。あるいはまた、こうも顕著な工業の進歩を、それに劣らず顕著な政治の退歩で補う必要があると考える者もいるかもしれない。われわれとしては、これらすべての矛盾にたえず印を残しているようすばしこい妖精の姿を見ちがえることはない。社会の新しい力をうまくはたらかせるには、新しい人間がこの力を支配しさえすればよいことを、われわれは知っている。―そして、そういう新しい人間とは労働者である。」 (第12巻,4)
「それらの矛盾」
「すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。たとえば、一物体が絶えず他の一物体に落下しながら、また同様に絶えずそれから飛び去るということは、一つの矛盾である。楕円は、この矛盾が実現されるとともに解決される諸運動形態の一つである。」 (第23巻・資本論Ta,138)
「外観上の矛盾」
「だれでも知っているように、充用総資本の百分比構成を計算してみて相対的に多くの不変資本と少ない可変資本とを充用する紡績業者は、だからといって、相対的に多くの可変資本と少ない不変資本とを運転する製パン業者よりも小さい利益または剰余価値を手に入れるわけではない。この外観上の矛盾を解決するためにはなお多くの中間項が必要なのであって、ちょうど、0/0が一つの実数を表わしうることを理解するためには、初等代数学の立場からは多くの中間項が必要であるのと同じである。」 (第23巻・資本論Ta,403)
「定式の矛盾」
「最後に、労働―労賃、すなわち労働の価格という定式は、すでに第一部で指摘したように、一見して明らかに価値の概念とは矛盾する表現であり、同様にまた、一般的にはそれ自身ただ価値の一定の表現でしかない価格の概念とも矛盾する表現である。そして、「労働の価格」というのもまた、たとえば黄色の対数というように不合理である。しかし、ここで俗流経済学者はますます満足するのである。なぜならば、いま彼は、自分は労働に貨幣を支払うのだというブルジョアの深い認識に到達しているからであり、また、価値の概念にたいするこの定式の矛盾こそは価値を理解する義務から彼を解放するものだからである。」 (第25巻・資本論Vb,1049)
「自身との矛盾」
「かくてフォイエルバッハは否定の否定をただ哲学のそれ自身との矛盾としてのみ理解する。換言すれば、神学(超越等々)を否定したあとでそれを肯定するところの、つまり自己自身に矛盾してそれを肯定するところの哲学としてのみ理解する。」 (第40巻,492)
「いっさいの矛盾」
資本家は、生産手段の所有者としての資格で、生産物をも取得し、それを商品とする。生産は社会的行為となったが、交換と、それとともに取得とは、あいかわらず個人的行為であり、個々人の行為である。社会的生産物を個々の資本家が取得する。これが基本的な矛盾であって、そこから、今日の社会がそのなかで運動しているいっさいの矛盾が生まれる。そして、大工業がこれらの矛盾を明るみにだす。」 (第19巻,224)
「自身の矛盾」
「彼は矛盾の化身です。もし彼が、そのうえプルードンのように才気のある人間であれば、じきに彼自身の矛盾をもてあそぶことをおぼえ、そのときの事情しだいで、あるいはあざましい、あるいはそうそうしい、ときにはいまわしい、ときには輝かしい逆説に、それを仕立てあげるでしょう。科学におけるほらふきと政治における日和見とは、こういう立場とは切っても切れないものです。」 (第16巻,30)
|
|
|
様々な「〜な矛盾」
「矛盾」は、文中において、文字列「な矛盾」を含む形式でも、用いられています。
それは、文字列「な矛盾」の前に、「矛盾」を形容する用語を用い、101ページにわたり、用いられています。
以下に、それらの例を、用いられているページ数を、2ページ以上のものに限り、示します。
このような矛盾,10 |
奇怪な矛盾,7 |
完全な矛盾,6 |
内在的な矛盾,5 |
内的な矛盾,5 |
明白な矛盾,5 |
次のような矛盾,4 |
解決不可能な矛盾,3 |
絶対的な矛盾,3 |
必然的な矛盾,3 |
不合理な矛盾,3 |
いろいろな矛盾,3 |
さまざまな矛盾,3 |
どんな矛盾,3 |
こっけいな矛盾,2 |
そのような矛盾,2 |
一般的な矛盾,2 |
基本的な矛盾,2 |
顕著な矛盾,2 |
質的な矛盾,2 |
明らかな矛盾,2 |
|
|
|
「〜な矛盾」の用例
以下に、文中における、「〜な矛盾」の用例を、示します。
「このような矛盾」
「それだから、市場は絶えず拡大されなければならないのであり、したがって、ますます市場の諸関連もそれを規制する諸条件も生産者たちからは独立な自然法則の姿をとるようになり、ますます制御できないものになるのである。内的な矛盾が生産の外的な場面の拡大によって、解決を求めるのである。ところが、生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費関係が立脚する狭い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ちた基礎の上では、資本の過剰が人ロ過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾ではないのである。なぜならば、この両方をいっしょにすれば、生産される剰余価値の量は増大するであろうとはいえ、まさにそれとともに、この剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾は増大するのだからである。」 (第25巻・資本論Va,307)
「奇怪な矛盾」
「もう一つ最後の逃げロ上が保護関税論者に残されている。彼らは言う、彼らの主張する制度はなにも社会改革の手段たることを求めているわけではない、しかし、国際的な関係で経済改革をやれるようになるまえに、まず手はじめに国内の社会改革をやる必要がある、と。保護制度は最初は反動的、ついで保守的となったが、最後には保守的進歩主義となる。ここでは、その矛盾を明らかにするだけで十分だろう。それは、ちょっと見にはなにか魅惑的で、実際的で、もっともらしくみえるこの理論のうしろに隠されている。じっさい奇怪な矛盾だ!」 (第4巻,313)
「完全な矛盾」
「ベルンハルト・ベッカー氏は、私が彼ベルンハルト・ベッカーがある役割を果たしたと言われる、ある国際田舎協会を相手にしようともしなかったのに、一方私が非常な熱心さをもって、昨年九月ロンドンの労働組合の指導者たちによって設立された国際協会に参加している点に、完全な矛盾を見いだしている。」 (第16巻,91)
「内在的な矛盾」
「商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立―この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能性だけを、含んでいるのである。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまったく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである。」 (第23巻・資本論Ta,150)
「内的な矛盾」
「第一の方向の活動は批判、したがってまさに哲学の外部への転回であり、第二の方向の活動は哲学しようという試み、したがって哲学の自己内転回である。というのは、この方向は欠陥を哲学に内在的なものと考えるのにたいし、第一の方向は、欠陥を、哲学的にされるべき世界の欠陥としてとらえるからである。これらの両派はどちらも、他方の派がおこなおうと欲するが自派としてはおこなうことを欲しないまさにそういうことを、おこなっている。第一の派はしかし、内的な矛盾をかかえながらも、一般的な原理と、自分の目的とを意識している。第二の派にあっては、顛倒そのもの、いわば錯乱そのものが現われる。」 (第40巻,257)
「明白な矛盾」
「しかし、ここに想定された場合には、労賃が騰貴するから諸商品が騰貴する、と言うのは、明白な矛盾を主張するものである。なぜならわれわれは一方では、金の相対価値は需要のために騰貴するであろうと言い、他方では、諸価格が騰貴するから金の相対価値は下落するであろうと言うのであり、両方の結果は、まったく相容れないものであるのだから。」 (補巻3,121)
「次のような矛盾」
「フランス人、たとえばルイ・ブランは、一月二九日を立憲制の次のような矛盾の現われたものと考えた。すなわち、主権を有する、解散できない、普通選挙によって成立した国民議会と、大統領―この大統領は、文字のうえでは議会に責任をもつとされているが、実際には議会と同様に普通選挙によって承認されており、そのうえ国民議会の各議員に与えられ幾百にも分散している全部の票を彼一身に集めており、さらにまた全執行権力を完全に掌握している、しかも議会はこの執行権力にたいしてはたんに精神的な力として宙に浮いているにすぎない―そういう大統領とのあいだの矛盾の現われだと考えた。」 (第7巻,46)
「解決不可能な矛盾」
「ところで、カントは右の命題を、彼の証明によって解決されたものとして提出しているのではけっしてない。その反対である。それと見合ったページで、彼は、右の命題と正反対のこと、すなわち、世界は時間にかんしてはじめをもたず、空間にかんしては終りをもたないということを主張し、かつ証明しているのである。そして、この両方の命題が同じように証明可能だというまさにその点に、彼は、二律背反、すなわち解決不可能な矛盾を見いだしているのである。」 (第20巻,50)
「絶対的な矛盾」
「商品こそは貨幣だ、と。いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ!という声が響きわたる。鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ。恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。」 (第23巻・資本論Ta,180)
「必然的な矛盾」
「いずれにせよ、事実はこうであった。すなわち、西ヨーロッパで資本主義社会が崩壊し、それ自身の発展の必然的な矛盾によって減亡に瀕しているとき、時を同じくしてロシアでは、全耕地の約半分がまだ農民共同体の共同所有になっていることである。」 (第22巻,422)
「不合理な矛盾」
「ある負の量がなにかの平方だというのは矛盾である。なぜなら、すべて負の量を二乗すれば、正の平方になるのでだから。したがって、マイナス一の平方根ということは、矛盾あるばかりか、不合理な矛盾、真の背理でさえある。それでも、√-1 は、多くの場合、正しい数学上の演算から必然的に出てくる答なのである。いやそれどころか、もしく、√-1 を用いて演算することが禁止されるなら、初等だろうが高等だろうが、数学はどうなることだろうか?。」 (第20巻,127)
|
|
|
「〜と〜との矛盾」の用例
「矛盾」は、「〜と〜との矛盾」の形式で、関連する矛盾を明らかにする用法が、用いられています。
それらの例を、以下に示します。
「世界の現実の姿とそれが官庁でとる姿との矛盾」 (第1巻,214)
「現実と行政原則との矛盾」 (第1巻,218)
「政治的国家と市民社会との矛盾」 (第1巻,332)
「観念的な規定とそれの実在的な諸前提との矛盾」 (第1巻,381)
「宗教的偏執と政治的解放との矛盾」 (第1巻,386)
「国家と、ユダヤ教のようなある特定の宗教との矛盾」 (第1巻,390)
「国家と宗教一般との矛盾」 (第1巻,390)
「国家とそれの諸前提一般との矛盾」 (第1巻,390)
「政治と金力との矛盾」 (第1巻,410)
「公生活と私生活との矛盾」 (第1巻,438)
「普遍的利益と特殊的利益との矛盾」 (第1巻,438)
「精神と自然との矛盾」 (第1巻,564)
「観念論と実在論との矛盾」 (第1巻,607)
「理論と実践との矛盾」 (第2巻,119 (第2巻,635) (補巻1,203)
「自由な理論と特権の実践的効力との矛盾」 (第2巻,119)
「生産用具と私的所有との矛盾」 (第3巻,62)
「一個のプロレタリアの人としてのあり方と、彼に押しつけられた生活条件である労働との矛盾」 (第3巻,73)
「個人的利益と一般的利益との矛盾」 (第3巻,248)
「個人と彼の表象との矛盾」 (第3巻,296)
「彼の最初の声明と最近の声明との矛盾」 (第8巻,533)
「材料と流通手段としてのその機能との矛盾」 (第13巻,96)
「個々の工場内における社会的組織と生産全体の社会的無政府状態との矛盾」 (第19巻,224)
「連続的な物質と不連続的な物質との矛盾」 (第20巻,577)
「個々の工場内における社会的組織と生産全体の社会的無政府状態との矛盾」 (第20巻,666)
「絶対主義的ツァーリズムと生成段階の新社会との矛盾」 (第22巻,45)
「貨幣の量的な制限と質的な無制限との矛盾」 (第23巻・資本論Ta,174)
「マニュファクチニア的分業と大工業の本質との矛盾」 (第23巻・資本論Ta,631)
「彼らの古い経済学説と彼らの近代的な傾向との矛盾」 (第23巻・資本論Tb,797)
「所有と合理的農学との矛盾」 (第25巻・資本論Vb,798)
「購買と販売との矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,692)
「資本主義の諸条件のもとでの生産と消費との矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,699)
「混乱と明快さとの矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史V,19)
「生産のための生産と、生産性の絶対的な発展をそれ自体排除する分配との矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史V,103)
「商品に含まれている使用価値と交換価値との矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史V,168)
「彼の固定観念と現実の運動との矛盾」 (第27巻,393)
「価値の一般的な諸性格と一定の商品における価値の素材的定在との矛盾」 (第29巻,247)
「彼らの悟性と聖書との矛盾」 (第40巻,301)
「人間の理性と道義との矛盾」 (第40巻,351)
「潜勢力と存在との矛盾」 (第41巻,198)
「哲学とキリスト教との矛盾」 (第41巻,234)
|
|
なお、「〜と〜とが矛盾」の表現は、2例のみが、見出されます。
事実上のやり方と合法的なやり方とが矛盾」 (第1巻,292)
もし機械による商品の増加と、この機械によって生産された商品にたいする以前に存在していた需要(すなわち解雇された労働者のもっていた需要)の減少とが矛盾 (第26巻・剰余価値学説史U,764)
様々な「〜と矛盾」
「矛盾」は、文中において、文字列「〜と矛盾」を含む形式でも、用いられています。
この形式は、181ページにわたり、用いられています。
それらの例と、用いられているページ数を、2ページ以上のものに限り、以下に示します。
法則と矛盾 15 |
ことと矛盾 9 |
関係と矛盾 8 |
自身と矛盾 6 |
理論と矛盾 7 |
対立と矛盾 5 |
理論と矛盾 5 |
それと矛盾 5 |
進歩と矛盾 4 |
概念と矛盾 4 |
規定と矛盾 4 |
原理と矛盾 4 |
権利と矛盾 3 |
原則と矛盾 2 |
現実と矛盾 2 |
規定と矛盾 2 |
意志と矛盾 2 |
基礎と矛盾 2 |
前提と矛盾 2 |
本質と矛盾 2 |
様式と矛盾 2 |
要求と矛盾 2 |
要素と矛盾 2 |
|
|
|
「〜と矛盾」の用例
以下に、「〜と矛盾」において、「〜」を含んだ用例と、その箇所を、示します。
「法則と矛盾」
「利潤率均等の法則と矛盾」 (第4巻,578)
「あらゆる法則と矛盾」 (第6巻,417)
「経済法則と矛盾」 (第18巻,209)
「根本法則と矛盾」 (第19巻,203)
「基本法則と矛盾」 (第20巻,24) (第20巻,389)
「落下法則と矛盾」 (第20巻,403)
「エネルギー保存の法則と矛盾」 (第20巻,431)
「利潤率均等の法則と矛盾」 (第21巻,184)
「価値法則と矛盾」 (第24巻・資本論U,28) (第25巻・資本論Va,22)
「諸法則と矛盾」 (第24巻・資本論U,367) (第24巻・資本論U,368)
「利潤率平均化の法則と矛盾」 (第25巻・資本論Va,368)
「剰余価値または利潤の法則と矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史T,80)
「以前に展開した法則と矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史T,424)
「関係と矛盾」
「現存の生活関係と矛盾」 (第3巻,27)
「自分の諸関係と矛盾」 (第3巻,466)
「所有諸関係と矛盾」 (第13巻,6) (第13巻,472)
「実際の家族関係と矛盾」 (第21巻,34)
「資本の増殖関係と矛盾」 (第25巻・資本論Va,334)
「現実の諸関係と矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,590)
「自身と矛盾」
「自分自身と矛盾」 (第1巻,155) (第20巻,628) (第22巻,337)
「それ自身と矛盾」 (第23巻・資本論Ta,171)
「自分自身と矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史V,422) (第26巻・剰余価値学説史V,645)
「自己自身と矛盾」 (第40巻,504)
「ある事物が対立を担っているとすれば、それは自分自身と矛盾しているわけであり、その事物の思想的表現も同様である。たとえば、ある事物がひきつづき同一のものでありながら、しかも同時にたえず変化するということ、「恒常性」と「変化」との対立をそれ自身においてもっているということは、一つの矛盾である。」
(第20巻,628)
「ことと矛盾」
「行動していたことと矛盾」 (第9巻,470)
「まえに言ったことと矛盾」 (第14巻,667)
「右に述べたことと矛盾」 (第21巻,54)
「不等であることと矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,268)
「彼が証明するべきことと矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,791)
「このことと矛盾」 (第40巻,329)
「理論と矛盾」
「実際が、理論と矛盾」 (第4巻,576)
「実際が理論と矛盾」 (第13巻,46 第21巻,182)
「事実は彼の理論と矛盾」 (第25巻・資本論Va,24)
「価値理論と矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,190)
「真理と矛盾」
「キリスト教の真理と矛盾」 (第1巻,107)
「永遠の真理と矛盾」 (第18巻,210) (第18巻,215) (第23巻・資本論Ta,114)
「それと矛盾」
「それと矛盾」 (第8巻,342) (第11巻, 100) (第26巻・剰余価値学説史V,242)
(第40巻,489) (補巻3, 474)
「権利と矛盾」
「労働者の権利と矛盾」 (第17巻,590) (第21巻,507) (第22巻,199)
「原理と矛盾」
「宗教の普遍的原理と矛盾」 (第1巻,10)
「諸原理と矛盾」 (第5巻,279) (第5巻,280)
「要求と矛盾」
「諸要求と矛盾」 (第5巻,278) (第16巻,278)
「生産上の諸要求と矛盾」 (第23巻・資本論Ta,483)
「進歩と矛盾」
「工業の進歩と矛盾」 (第4巻,484)
「進歩と矛盾」 (第4巻,532) (第7巻,248)
「説と矛盾」
「彼の所説と矛盾」 (第12巻,430)
「通説と矛盾」 (第14巻,234)
「全学説と矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,775)
「原則と矛盾」
「基本原則と矛盾」 (第12巻,275)
「労働の完全自由の原則と矛盾」 (第23巻・資本論Ta,364)
「規定と矛盾」
「価値規定と矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,214)
「価値の規定と矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,214 (第26巻・剰余価値学説史U,321)
その他
「正義や平等などと矛盾」 (第19巻,221) (第20巻,290)
「生産諸力と矛盾」 (第18巻,680) (第22巻,423)
「現実と矛盾」 (第25巻・資本論Va,24 (第39巻,377)
|
|
|
「解決できない矛盾」
様々な「矛盾」に関して、「解決できない矛盾」の記述が、見出されます。
われわれはさきに、わが労働の価値についてはてしない堂々めぐりに陥ったのだが、こんどはいよいよ解決できない矛盾にはまりこんでしまった。われわれが労働の価値を探し求めて発見したものは、かえってわれわれの手に負えない難問だったのである。一二時間の労働の価値は、労働者にとっては三マルクだが、資本家にとっては六マルクで、資本家はそのうち三マルクを賃金として労働者に支払い、三マルクを自分のポケットに入れてしまう。してみると、労働は一つの価値でなく二つの価値を、おまけにひどく違う価値をもっていることになる!
貨幣であらわされた価値を労働時間に還元してみると、この矛盾は、いっそうはなはだしいものになる。一二時間の労働によって六マルクの新しい価値がつくりだされる。
したがって六時間では三マルクとなるが、これは労働者が一二時間の労働とひきかえに受け取る額である。労働者は、一二時間の労働とひきかえに、等しい対価として、六時間
の労働の生産物を受け取る。したがって、労働には二つの価値があり、その一方が他方の二倍の大きさであるのか、それとも一二と六が等しいのか、どちらかである!どちらの場合にも、まったくの矛盾にぶつかる。
われわれは、いくらもがきまわったところで、労働の売買や労働の価値を論じているかぎり、この矛盾からぬけだすことはできない。そして、経済学者にとってもそうであった。古典派経済学の最後の一派であるリカード学派が破綻したのも、だいたいはこの矛盾が解決できなかったからである。古典派経済学は袋小路にはいりこんでしまった。」 (第22巻,212)
その他の用例は、形而上学、
解決できない新しい矛盾を、参照してください。
|
|
|
「矛盾」「一方〜」「他方〜」
「矛盾」の内容が、「一方〜」 「他方〜」の様式で、表現されています。
「一方では〜」 「他方では〜」が、64ページに、
「一方に〜」 「他方に〜」が、18ページに、
「一方は 〜」 「他方は〜」が、9ページに、
「一面では〜」 「他面では〜」が、 8ページに、見いだせます。
以下に、「一方〜」 「他方〜」の用例を、示します。
「一方では〜」 「他方では〜」
「訓令のなかの次の数行を読めば、一方では検閲が勅令を超え出ておこなわれないようにのぞみ、他方では勅令以上に超え出ることを命じる、という矛盾に訓令が陥っていることが明らかになる。」 (第1巻,10)
「議会」のうちに現代の国家諸機構のあらゆる矛盾が凝集している。
議会は「一方では総じて統治する側、他方では特殊な諸圏と諸個人に解消した国民、この両者のあいだに」位置し (第1巻,307)
「自由貿易学説によってもちこまれた矛盾
自由貿易は、一方では独占の復活をもたらし、他方では私的所有の廃棄をもたらさざるをえない。」 (第1巻,438)
「実践と理論とははなはだしく矛盾している。
一方では立法府の三位一体制―他方では中間階級の専制。一方では二院制度―他方では全能の庶民院。一方では国王の大権―他方では庶民院によって選出される内閣。一方では世襲の立法者たちをもつ独立の上院―他方では老衰した代議士のための養老院。」 (第1巻,633)
「だから支払手段としての貨幣の機能は、次のような矛盾をふくんでいる。すなわち、貨幣は一方では諸支払が相殺されるかぎり、ただ観念的に尺度として作用し、他方では支払が実際におこなわれなければならないかぎりでは、瞬間的な流通手段としてではなく、一般的等価物の休止的な定在として、絶対的商品として、ひとことでいえば貨幣として流通にはいっていくという矛盾がこれである。だから諸支払の連鎖とそれらを相殺する人為的制度とがすでに発達しているところでは、諸支払の流れを強力的に中断して、それらの相殺の機構を撹乱する激動が生じると、貨幣は突然に価値の尺度としてのその気体状の幻の姿から、硬貨すなわち支払手段に急変する。」 (第13巻,124)
「一方ではすべての観念の起源を感性的世界に求めながら、他方で、・・・、なお普遍的な存在があると主張するのは、矛盾というものであろう。」 (第19巻,547)
「人間は、一方では、世界体系の総連関をあますところなく認識しようとするが、他方では、人間そのものの本性からしても、また世界体系の本性からしても、いつになってもこの課題を完全に解決することはできない、という矛盾に当面する。しかし。この矛盾は、世界と人間という二つの要因の本性のうちにある矛盾だというだけではない。それはまた、いっさいの知的進歩の主要な槓杆であって、日々に、たえまなく、人類の無限の進歩的発展をつじて解決されてゆくのである。」 (第20巻,36)
「資本主義的生産様式の狭い制限にしばられて、大工業は、一方では人民大衆全体のますます増大していくプロレタリア化を生みだし、他方では売れない生産物をますます大量に生産している。たがいに原因となり結果となっている過剰生産と大衆の貧困、これが大工業の落ちこんでいくばかげた矛盾であって、この矛盾が、生産様式の変更によって生産諸力を解放することを必然的に要求しているのである。」 (第21巻,305)
「シスモンディには、資本主義的生産に矛盾があるという根深い予感がある。すなわち一方では、それの諸形態―それの諸生産関係―は生産力と富との無拘束な発展を刺激し、他方では、これらの関係が制約されており、使用価値と交換価値、商品と貨幣、購買と販売、生産と消費、資本と賃労働などに関するそれの諸矛盾は、生産力が発展すればするほど、それだけますます大規模になる、という根深い予感がある。特に彼は次のような根本的矛盾を感じている。すなわち、一方では、無拘束な生産力の発展と、同時に諸商品から成っていて現金化されなければならない富の増加、他方では、基礎として、生産者大衆の必需品への制限、という根本的矛盾である。」 (第26巻・剰余価値学説史V,63)
「しかし、生産が一方ではそれ自身の内在的な法則によって、生産諸力を、局限された社会的基礎のうえでの生産ではないかのように発展させることを余儀なくされ、しかも他方では再びその生産諸力がただこのような局限性の制限のなかでしか発展することができないということは、恐慌の、つまりこの恐慌において爆発する諸矛盾の、最も内的で最も隠れた原因なのであって、この諸矛盾の内部で生産は進行するのであり、そして、この諸矛盾は粗雑な観察者の目にさえもこの生産が単に歴史的な過渡形態にすぎないことをはっきりと示すのである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,103)
「こうして彼らは一方では労働を絶対的だとし(というのは、彼らにとっては賃労働は労働と同義なのだからである)、他方では資本を同様に絶対的だとし、労働者の貧窮と非労働者の富とを同時に富の唯一の源泉として言い表わすのだから、彼らは絶えず絶対的な諸矛盾のなかで動いていながら、少しもそれを感じてはいないのである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,340)
「だから、一方では諸商品の価格が労賃、地代、利子を規定し、他方では利子、地代、労賃という価格か諸商品の価格を規定するということも、この立場に立てば、理論にとって矛盾ではないのであり、または、もしそれが矛盾であっても、それは同時に現実の運動の矛盾、悪循環なのである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,643)
「一方に〜」 「他方に〜」
「一方に従えば不法であるものが、他方に従えば法であるとされる。」 (第1巻,16)
「国家は自分自身を廃棄しないかぎり、一方における行政の使命および善意と、他方における行政の手段および能力との矛盾をなくすことはできない。なぜなら、国家はこの矛盾に基礎をおいているからである。国家は公生活と私生活との矛盾、普遍的利益と特殊的利益との矛盾に基礎をおいている。」 (第1巻,438)
「一方の〜」 「他方の〜」
「文明の基礎は、一階級が他の一階級を搾取することであるから、文明の全発展はたえまない矛盾をつうじておこなわれる。生産のすべての進歩は、同時に被抑圧階級すなわち大多数者の地位における一つの退歩である。一方にとっての福祉は、すべてかならず他方にとっての禍いであり、一方の階級の新たな解放は、すべて他方の階級にとっての新たな抑圧である。その最も適切な証明を提供しているのは、機械の導入である。機械の導入の諸結果は、今日ではだれ知らぬものもない。」 (第21巻,175)
「一方は〜」 「他方は〜」
一方は立法権の議会的要素、いま一方は政府的要素、このそれぞれにおいて、はじめて対立はたたかい合うにふさわしい対立、しかしまた相容れない矛盾となるにいたったようにみえる。」 (第1巻,326)
「一面では〜」 「他面では〜」
「それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発、恐慌を促進し、したがってまた古い生産様式の解体の諸要素を促進するのである。
信用制度に内在する二面的な性格、すなわち、一面では、資本主義的生産のばねである他人の労働の搾取による富を最も純粋で最も巨大な賭博・詐欺制度にまで発展させて、社会的富を搾取する少数者の数をますます制限するという性格、しかし、他面では、新たな生産様式への過渡形態をなすという性格」 (第25巻・資本論Va,563)
「他方では、これはしかし、アメリカの発展の矛盾からもきている。つまり、一面では、膨大な荒地の開墾という第一の課題にまだとりくんでいながら、他面では、工業生産における競争で首位を争うことをもう余儀なくされてもいるのだ。」 (第39巻 336)
|
|
|
「矛盾は」の述語
文字列「矛盾は」では、「矛盾」が、文章における、主語として用いられています。
それは、111ページにわたって、見出されます。
主語に対応する述語として、以下の用例が、見出されます。
以下に、それらの例と、ページ数を、示します。
である,28 |
現われ,10 |
解決され,7 |
あらわれ,4 |
であろう,3 |
になる,3 |
なっている,2 |
すぎない,2 |
にある,2 |
解消され,2 |
明るみにでた,2 |
帰着する,2 |
存在しない,2 |
再生産される,2 |
生じ,2 |
追い返す,2 |
爆発する,2 |
|
|
|
|
「矛盾は」の述語の用例
次に、「矛盾は」の述語の用例を、示します。
「矛盾は」〜「である」
「競争の矛盾は、私的所有そのものの矛盾とまったく同一である。」 (第1巻,332)
「ところが、そのような矛盾は確かになにかもっと深いもの、つまりある本質的な矛盾をその本質にもっているのであり、たとえば、ここで立法権のそれ自身のうちでの矛盾は政治的国家の、したがってまた市民社会の、自己自身との矛盾であるようなものである。」 (第1巻,332)
「要するに、過剰生産という明白な現象にたいするいっさいの異論(こんな異論をこの現象は少しも気にかけない)が帰着するところは、資本主義的生産の制限はけっして生産一般の制限ではなく、したがってまたこの独自な生産様式、この資本主義的生産様式の制限でもないということである。ところが、この資本主義的生産様式の矛盾は、まさに、生産力の絶対的な発展へのこの生産様式の傾向にあるのであり、しかもこの発展は、資本がそのもとで運動しておりまたただそのもとでのみ運動できる独自な生産条件と絶えず衝突するのである。」 (第25巻・資本論Va,323)
「七月革命と一八四二年の議会の矛盾は首都と農村の矛盾である。」 (補巻1,48)
「矛盾は」〜「現われ」
「生
産力と交通形態との、この矛盾は、われわれの見たように、すでにたびたび従来の歴史のなかに現われた。」 (第3巻,70)
「同じ矛盾は、一八六八年の一年をつうじて現われ、なお一八六九年になっても『フォルクスシュタート』に現われた。」 (第18巻,651)
「社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾は、いまや、個々の工場内における生産の組織化と全体としての社会における生産の無政府状態との対立として現われる。」 (第19巻,213)
「マニュファクチニア的分業と大工業の本質との矛盾は、暴力的にその力を現わす。この矛盾は、なかんずく、現代の工場やマニュファクチュアで働かされる子供たちの一大部分が、非常に幼少の時から最も簡単な作業に固く縛りつけられ、何年も搾取されていながら、後年彼らを同じマニュファクチュアや工場で役にたつものにするだけの作業さえも習得できない、という恐ろしい事実に現われる。」 (第23巻・資本論Ta,631)
「矛盾は」〜「解決され」
「だから、社会問題の流血の解決をのぞまないなら、わが国のプロレタリアの教養と境遇とのあいだに日々に増大しつつある矛盾を極限までこうじさせたくないなら―人間本性についてのわれわれのあらゆる経験から判断して、そこまでこうじれば、矛盾は、野蛮な暴力と絶望と復讐欲とによって解決されるようになる―」 (第2巻,583)
「すなわち、生きた労働の報酬がますます少なくなり、賃金だけで生活する労働者の大衆がますます多くなり、ますます貧しくなっていくのに、蓄積された死んだ労働の利潤はますます増大し、資本家の資本はますます巨大となっていくのである。では、この矛盾はどのように解決されるべきか?」 (第16巻,232)
「矛盾は」〜「あらわれ」
「なぜなら、スミスとマルサスができあがったものとして見いだしたのは個々の断片にすぎなかったのに、新しい経済学者たちは完成された全体系に当面したからである。結論はすべて出され、矛盾は十分明瞭にあらわれていた。」 (第1巻,545)
「矛盾は」〜「であろう」
「すなわち、資本主義的生産様式が、社会的生産の独自に発展した独特な一形態ではなく、その最も未発展な初期から存在している生産様式だとすれば、それに特有な諸対立や諸矛盾は存在しないであろうし、したがってまた、それらが恐慌となって爆発することもないであろう、ということがそれである。」 (第26巻・剰余価値学説史U,676)
「矛盾は」〜「になる」
「貨幣であらわされた価値を労働時間に還元してみると、この矛盾は、いっそうはなはだしいものになる。一二時間の労働によって六マルクの新しい価値がつくりだされる。したがって六時間では三マルクとなるが、これは労働者が三時間の労働とひきかえに受け取る額である。労働者は、一二時間の労働とひきかえに、等しい対価として、六時間の労働の生産物を受け取る。したがって、労働には二つの価値があり、その一方が他方のこ倍の大きさであるのか、それとも一二と六が等しいのか、どちらかである!どちらの場合にも、まったくの矛盾にぶつかる。」 (第6巻,582)
|
|
|
「矛盾が〜」
文字列「矛盾が〜」では、「矛盾」が、文章における、主語として用いられています。
文字列「矛盾が〜」の表現が、127ページにわたって、見出されます。
矛盾がある,19 |
矛盾が生,10 |
矛盾が存在,9 |
矛盾が現,9 |
矛盾が解決,9 |
矛盾が出,5 |
矛盾が起,3 |
矛盾があっては,2 |
矛盾がなく,2 |
矛盾がふくまれ,2 |
|
|
|
|
なお、「矛盾が激化」や「矛盾が揚棄」は、1ページのみ、見出されます。
「矛盾が〜」の用例
「矛盾がある」
「だから、剰余価値を生産するために機械を充用するということのうちには一つの内在的な矛盾がある。というのは、機械の充用が、与えられた大きさの一資本によって生みだされる剰余価値の二つの要因のうちの一方の要因である剰余価値率を大きくするためには、ただ他方の要因である労働者数を小さくするよりほかはないからである。」 (第23巻・資本論Ta,531)
「つまり、彼は何の根拠もない仮定を立てる、そして、現実の発展と彼の虚構とが一歩ごとに矛盾するので、そこから彼は矛盾の存在を結論するのです。彼は、彼の固定観念と現実の運動とのあいだに矛盾があるだけだということについては、知らないふりをしているのです。 」 (第4巻,567)
「いままで知られている社会の存在形態は次の二つしかない。すなわち、「政治的形態と経済的形態であり、しかも、両者のあいだには本質的な反目と矛盾がある」 (補巻3,164)
「矛盾が生」
「ここではしたがって、われわれが見いだす最初の経済的関係から出発する。われわれはこの関係を分析する。それがひとつの関係であるということのうちに、それが、相互に関係しあう二つの側面をもつということもふくまれている。これらの側面のおのおのがそれ自体として考察される。そこから、それらが互いに関係しあうしかた、それらの交互作用が出てくる。解決を要求する諸矛盾が生しるであろう。」 (第13巻,478)
「以上のことから重農主義の体系における諸矛盾が生ずる。
重農主義は、事実上、資本主義的生産を分析し、資本がそのもとで生産されそのもとで生産するところの諸条件を生産の永久的自然法則として説明している最初の体系である。他方では、それはむしろ、封建制度の、土地所有支配の、ブルジョア的再生産として現われる。そして、資本がその内部ではじめて自立的に発展するところの工業面は、むしろ「不生産的」労働部門、農業の単なる付属物として現われる。」 (第26巻・剰余価値学説史T,19)
「矛盾が存在」
「恐慌を否定し去るための弁護論的ないろいろな文句は、それが証明しようとすることの反対のことをつねに証明するというかぎりで、重要である。それらは―恐慌を否定し去るために―対立と矛盾が存在するところで統一を主張する。したがって、それらの文句は、それらが、みずからの空想のなかで取り除いた諸矛盾がもし実際に存在しないとすれば恐慌もまた存在しないであろう、ということを証明している、と言うことができるかぎりで、重要なのである。しかし実際には、そのような諸矛盾が存在するために、恐慌は存在するのである。」 (第26巻・剰余価値学説史U.701)
「ところで、一方の側ではすべてのこれらの矛盾が前提され、それと同時に、他方の側では、これらの矛盾が存在しない場合とまったく同様に、生産が摩擦なしに行なわれることが前提されるのである。購買と販売とは分離されていて、商品は貨幣から、使用価値は交換から分離されている。」 (第26巻・剰余価値学説史V,154)
「矛盾が現」
「相対立した、あるいは矛盾している諸規定を矛盾なしに一にして同一な本質ヘ合一させる手段は時間だけである。すくなくとも生物においてはそうである。そんなわけでここでは、たとえば人間においては、矛盾が現われて、いまはこの規定、この意図が私を支配し、満たすかと思えば、こんどはまったく別な、正反対の規定が私を支配し、満たすといった具合に矛盾があらわれるというだけである。」 (第3巻,601)
「購買と販売とが相互に分離し矛盾するということがなければ、あるいはまた支払手段としての貨幣に含まれている諸矛盾が現われるということがなければ、つまり、恐慌が同時に単純な形態―購買と販売との矛盾、支払手段としての貨幣の矛盾―で現われてくるということがなければ、恐慌は存在しえないのである。」 (第26巻・剰余価値学説史U,692)
「矛盾が解決」
「一般的等価物として排除された商品は、いまや交換過程そのものから生じる一つの一般的欲望の対象であって、だれにとっても交換価値の担い手、一般的交換手段であるという同一の使用価値をもっている。こうしてこの一商品においては、商品が商品として内包する矛盾、特殊な使用価値であると同時に一般的等価物であり、したがってだれにとっても使用価値、一般的使用価値であるという矛盾が解決されている。」 (第13巻,32)
「われわれは、いくらもがきまわったところで、労働の売買や労働の価値を論じているかぎり、この矛盾からぬけだすことはできない。そして、経済学者にとってもそうであった。古典派経済学の最後の一派であるリカード学派が破綻したのも、だいたいはこの矛盾が解決できなかったからである。古典派経済学は袋小路にはいりこんでしまった。この袋小路から脱けだす道を見いだした人こそ、カール・マルクスだったのである。」 (第6巻,582)
「矛盾が出」
「諸矛盾が出てくるのは、商品生産の基礎のうえで私的労働が一般的な社会的労働として表わされるということ、人々の関係が物と物との関係として表わされるということからであって―これらの矛盾は、事柄の言語上の表現のなかにではなく、事柄のなかに存するのである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,176)
「矛盾が起」
「ところで、一定量の力学的運動のなかにふくまれている仕事の能力のことを、すでに見たように、この運動の活力とよび、そしてそれは最近までmv2を尺度として測られていた。ところがここに新しい矛盾が起こった。」 (第20巻,415)
|
|
|
「諸矛盾」など
「諸矛盾」など、「矛盾」を形容する表現が、見出せます。
諸矛盾,118 |
自己矛盾,41 |
相矛盾,23 |
相互矛盾,4 |
形容矛盾,3 |
主語矛盾,1 |
|
|
|
|
「諸矛盾」などの用例
「諸矛盾」
「経済的諸矛盾」 (第16巻,285) など11ページ
「法則の内的な諸矛盾」 (第25巻・資本論Va,303) など4ページ
「資本主義的生産の諸矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史T,22) など3ページ
「現実的な諸矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史V,108) など3ページ
「これらの諸矛盾」 (第13巻,29) など3ページ
「この諸矛盾」 (第1巻,489) など3ページ
「その諸矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史V,65) など3ページ
「立憲君主制の本質をなす内的諸矛盾」 (第1巻,626)
「物質的生活の諸矛盾」 (第13巻,7)
「諸商品の交換過程が内包していた諸矛盾」 (第13巻,69)
「労働の諸矛盾」 (第13巻,80)
「経済学的諸矛盾」 (第16巻,26)
「立憲主義の諸矛盾」 (第2巻,120)
「和解しがたい諸矛盾」 「出口のない諸矛盾」 (第20巻,452)
「諸対立と諸矛盾」 (第21巻,72)
「資本主義的生産過程の諸矛盾」 (第23巻・資本論Ta,150)
「生産形態の諸矛盾」 (第23巻・資本論Ta,635)
「重農主義の体系における諸矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史T,19)
「ブルジョア的生産の諸矛盾と諸対立」 (第26巻・剰余価値学説史U,675)
「現実には存在する諸矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史U,701)
「恐慌において爆発する諸矛盾」 (第26巻・剰余価値学説史V,103)
「自己矛盾」
「自己矛盾し」,11
「自己矛盾におちいって」,6
「自己矛盾におちいる」,3
「自己矛盾に陥」,4
「自己矛盾に陥」って,3
「自己矛盾して」,4
「自己矛盾しない」,2
「自己矛盾をきたす」,3
「相矛盾」
「相矛盾したもろもろの意図」 (第1巻,376)
「相矛盾する二つの思考、すなわち、肯定と否定とに、然りと否とに」 (第4巻,132)
「相矛盾する訓令」 (第12巻,114)
「相矛盾する諸要求」 (第13巻,29)
「相矛盾する諸勢力」 (第13巻,405)
「さまざまの相矛盾した動機」 (第14巻,167)
「相矛盾した主張」 (第15巻,350)
「資本の相矛盾する二つの傾向、すなわち、(一)使用する労働者数、つまり可変資本
の量を縮小しようとする傾向、(二)にもかかわらず、できるだけ大きな剰余価値量を生産しようとする傾向」 (第16巻,306)
「相矛盾する利害」 (第18巻,586)
「相矛盾する多くの可能な決定」 (第20巻,118)
「相矛盾した教義」 (第21巻,12)
「存在と非存在という二つの相矛盾した対立物」 (第41巻,195)
「国境閉鎖にかんする相矛盾する流説」 (補巻2,57)
「相互矛盾」
「われわれはこの会議に出席した。われわれは、はじめからこれら経済学界の大先生がたに特別の敬意なんかもっていなかった。彼らの学識といえ
ば、彼らが相互矛盾と自己矛盾を見せながら、いつもまるっきり平然としていられる、説というほどのものなのだから。」 (第4巻,307)
「形容矛盾」
「こういうわけで、彼は、またしても自分の証明すべき当のことを、前提としてこっそりもちこんでいるのだ。だから、数えつくされた無限系列という観念、いいかえれば、世界を包括するデューリングの定数法則は、一つの形容矛盾(contradictio in adjecto)であり、それ自身のうちに矛盾を、しかも不合理な矛盾をふくんでいるのである。
*対象とその規定とのあいだに不合理な矛盾があること。「丸い四角形」、「木製の鉄」というたぐい。」 (第20巻,51)
「主語矛盾」
「しかし、どんな形態の所有も存在しないところではどんな生産も、したがってまたどんな社会も問題になりえないということは、一つの同義反復である。なにも自分のものにしない取得というものは、主語矛盾(contradictio in subjecto〕である。」 (第13巻,615)
|
|
|
「〜的矛盾」
「矛盾」を形容する表現として、「〜的矛盾」が、29ページにわたり、見出せます。
内的矛盾,6 |
経済的矛盾,3 |
一般的矛盾,2 |
原理的矛盾,1 |
現世的矛盾,1 |
実践的矛盾,1 |
本質的矛盾,1 |
利己的矛盾,1 |
論理的矛盾,1 |
恒常的矛盾,1 |
理論的矛盾,1 |
根本的矛盾,1 |
社会的矛盾,1 |
悲劇的矛盾,1 |
思弁的矛盾,1 |
弁証法的矛盾,1 |
哲学的矛盾,1 |
|
|
|
|
「〜的矛盾」の用例
「内的矛盾」
「国法と私法とは、自立した分野として論じられ、取り扱われる。つまり、独立した歴史的発展をとげ、また内的矛盾をすべて徹底的に除去することによってそれ自身として体系的に叙述できるし、またしなければならない、そういう分野として取り扱われのである。」 (第21巻,498)
「これらすべての道徳論者たちは、道徳と宗教との間にある原理的矛盾から出発したが、それは道徳は人間精神の自律の上に、宗教はその他律の上にもとづいているからである。検閲制度のこのような望ましくない更新―これは一方では君たちの道徳的良心の弱化を、他方では君たちの宗教的良心の尖鋭化を意味するわけであるが―についてはしばらくおき、喜ばしいこと、すなわち〔新訓令のなかの]諸譲歩について見ることにする。」 (第1巻,14)
「論理的矛盾」
「イギリスにおけるように、ゆっくりと平和的、政治的な発展がおこなわれるということは、はてしない妥協によって、矛盾にみちた状態をひき起こす。この状態は、その利益が大きいために、実際には一定の限度内ではがまんできるものではあるが、その論理的矛盾のために、思惟する悟性にたいしては、いたましい苦悩をあたえる。だから、あらゆる「国政をにぎる」諸政党にとって、理論的なごまかしや弁解さえもやる必要がでてくるのである。もちろんこれは、誰弁とか強弁とか、最後にはつじつまのあわない小細工によってしかやりおおせないのである。」 (第22巻,337)
「恒常的矛盾」
「生産者大衆の収奪と貧困化とにもとづく資本価値の維持と増殖とはただこのような制限のなかでのみ運動することができるのであるが、このような制限は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは、絶えず矛盾することになる。手段―社会的生産力の無条件的発展―は、既存資本の増殖という制限された目的とは絶えず衡突せざるをえない。それだから、資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段だとすれば、それはまた同時に、このようなその歴史的任務とこれに対応する社会的生産関係とのあいだの恒常的矛盾なのである。」 (第25巻・資本論Va,314)
「弁証法的矛盾」
「お手紙を拝見し、不快で愉快(ご覧のとおり、私はいつも弁証法的矛盾のなかで運動している)な思いにかられました。不快なのは、・・・です。愉快なのは、・・・です。」 (第32巻,442)
|
|
|
「〜的な矛盾」
「矛盾」を形容する表現として、「〜的な矛盾」などが、見出せます。
内在的な矛盾,5 |
内的な矛盾,3 |
絶対的な矛盾,3 |
質的な矛盾,2 |
基本的な矛盾,2 |
一般的な矛盾,2 |
必然的な矛盾,1 |
本質的な矛盾,1 |
異質的な矛盾,1 |
政治的な矛盾,1 |
実在的な矛盾,1 |
外観的な矛盾,1 |
過渡的な矛盾,1 |
卑俗的な矛盾,1 |
現実的な矛盾,1 |
普遍的な矛盾,1 |
悲劇的な矛盾,1 |
総括的な矛盾,1 |
悲喜劇的な矛盾,1 |
自己廃棄的な諸矛盾,1 |
必然的に矛盾,1 |
決定的に矛盾,1 |
内部的に矛盾,1 |
実体的に矛盾,1
|
|
|
〜的矛盾
「内在的な矛盾」などの用例は、「な矛盾」の用例を、参照してください。
「矛盾しない」など
先にあげた、「矛盾する」や「矛盾した」に対して、「矛盾しない」などの表現が、見出せます。
矛盾しない,23 |
矛盾するものではない,10 |
矛盾ではない,7 |
矛盾のない,6 |
矛盾もない,5 |
矛盾なしに,4 |
矛盾していない,4 |
矛盾してはいない,3 |
矛盾せず,3 |
矛盾せず,3 |
矛盾からぬけだ,2 |
矛盾をなくす,1 |
矛盾しているのでない,1 |
矛盾が存在せず,1 |
矛盾をなくせば,1 |
矛盾がなかった,1 |
矛盾がなくなる,1 |
矛盾はない,1 |
矛盾は存在しない,1 |
矛盾は現実化されない,1 |
矛盾が存在しない,1 |
矛盾したものはない,1 |
矛盾しません,1 |
矛盾するとは言えない,1 |
矛盾にもぶつからない,1 |
|
|
|
「矛盾しない」などの用例
「矛盾しない」
「諸君の信仰に矛盾するものはすべてはじめから誤りであり、また誤りとして取扱うべきだというなら、諸君の独善は、マホメット教徒の独善や、その他のあらゆる宗教の独善と、どこがちがうのか?哲学は、「郷にいっては郷に従え」ということわざに従って、国ごとに、その国の教義の根本原理に矛盾しないよう、それぞれちがった原理をとりいれるべきなのか?哲学は、ある国では、3×1=1であると、次の国では、女は霊魂をもっていないと、また別の国では天国の飲物はビールであると、信ずべきなのか」? (第1巻,108
)
「しかし、さらにすすんで、それでは思考や意識とはいったいなんであり、またどこから生まれてくるのか、とたずねるならば、それらは人間の脳の産物であること、そして、人間そのものが自然の一産物であり、自分の環境のなかでまたこの環境とともに発展してきたものだということがわかる。そこで、人間の脳が生みだしたものも、けっきょくはやはり自然の産物なのだから、その他の自然の連関と矛盾しないで照応するのは、あたりまえなわけである 。」 (第20巻,35)
「商品として売買されるのは、労働ではなくて労働力である。労働力が商品になれば、その価値は、一つの社会的生産物としての労働力に具体化されている労働によって定まるのであり、それは、労働力の生産および再生産のために社会的に必要な労働に等しいのである。だから、労働力のこの価値にもとづく労働力の売買は、けっして経済学的価値法則と矛盾しないのである。」 (第24巻・資本論U,28)
「矛盾するものではない」
「ギリシア人は正常な子供だった。彼らの芸術がわれわれにたいしてもつ魅力は、この芸術がそのうえで成長した未発展な社会段階と矛盾するものではない。彼らの芸術の魅力は、むしろ、この未発展な社会段階の結果なのである。また、むしろ、かの芸術がそのもとで発生した、そしてただそのもとでのみ発生しえた未熟な社会的諸条件がふたたび帰ってくることはけっしてありえないということと、不可分に関連しているのである。」 (第13巻,638)
「生命が自然全体の一成果だということは、生命の独占的で自立的な担い手である蛋白が自然の連関全体によってあたえられる特定の諸条件のもとに発生し、しかもまさに一化学的過程の所産として発生するのだという事実と、けっして矛盾するものではない。」 (第20巻,510)
「矛盾ではない」
「さて、批判の真の要素のなかで、その真の要素にたいする批判の矛盾が「すでに解決されてしまっていた」のであるから、また、解決された矛盾とは、なんら矛盾ではないのだから、したがって、厳密にいえば、批判はその真の要素になんら矛盾しているのでなく、自分自身になんら矛盾しているのでない。」 (第2巻,110)
「これに反して、単に商品の価値だけに目を向けるならば、「すでに遂行されたある与えられた労働量」を「遂行されるべき等しい労働量」と交換するということ(といっても資本家は、実際には、労働が遂行されてしまったのちに、はじめて支払うのであるが)は、もはや矛盾ではないし、また、遂行された労働量を遂行された等しい労働量と交換するということも矛盾ではない。あとのほうは一つのばかげた同義反復である。前のほうは、「遂行されるべき労働」が、遂行された労働としては他の使用価値に物質化されている、ということを含んでいる。」 (第26巻・剰余価値学説史V,228)
「矛盾のない」
「国家が国教から自己を解放することによって、すなわち、国家が国家としてどんな宗教をも信奉しないで、むしろ国家が自己を国家として信奉することによって、国家は国家なりに、それの本質に特有の仕方で、国家として自己を宗教から解放する。宗教からの政治的解放は、宗教からの徹底した、矛盾のない解放ではない。なぜなら、政治的解放は、徹底した、矛盾のない、人間的解放のやり方ではないからである。」 (第1巻,390)
「矛盾もない」
「ここでの問題は、たんに、彼の立場からすれば、労働者階級の状態が「異常なほど」改善したといわれることと、「人を酔わせるような富と力の増大は、まったく有産階級だけに限られている」ということとのあいだに、なんらの矛盾もないということである。それどころか、労働者が自分の利益をはかるいちばん確かな手段は、自分の搾取者の富をふやすことだというのが、資本の代弁者たち―そしてグラッドストン氏は、いちばん高い報酬をうけている資本の代弁者のひとりである―の正統的な学説なのである。」 (第22巻,155)
「矛盾なしに」
「しかし、もしわれわれが時間を、一から数えはじめられた系列、または一定の点から出発する線と表象するとすれば、それは、とりもなおさず、時間にははじめがある、とはじめから言っていることになる。すなわち、まさに証明すべき当のことを前提しているわけである。われわれは時間の無限性に、一方向的な、半分の性格をあたえるのであるが、一方向的な無限性、半分にされた無限性というものは、やはり自己矛盾であって、「矛盾なしに考えられた無限性」とは正反対のものである。この矛盾は、次のように仮定する場合にだけ乗りこえられる。すなわち、われわれが系列を数えはじめるその一、そこから線を測ってゆくその起点は、系列のなかの任意の一、線の上の任意の時一点であって、われわれがそれをどこに移そうが、その線または系列にとってはどうでもよいことであると、仮定するのである。」 (第20巻,154)
「矛盾していない」
「最後に、イングランド銀行は流通にある銀行券の量にたいして統制力をもっている。これがその想定である。さて、これらの前提は、そのどの一つをとっても完全にまちがいでないものはなく、事実に矛盾していないものはない。純粋な金属流通を考えてみてさえ、通貨の量が物価を決定しえないのは、それが商工業の取引量を決定しえないのと同じである。その反対に、物価が流通にある通貨の量を決定する。」 (第9巻,295)
「矛盾にもぶつからない」
「われわれが事物を静止した、生命のないものとして、個個別々に、相並び相前後するものとして考察するあいだは、たしかに、それらの事物においてどんな矛盾にもぶつからない。われわれはそこに若干の特性を見いだすが、それらの特性の一部は共通であり、一部はたがいに違っており、それどころかたがいに矛盾さえしているけれども、この場合には、それらの特性はそれぞれ違った事物に割りふられているので、それ自身のうちにはなんの矛盾もふくんでいない。このような考察領域で事足りるあいだは、われわれは、普通の形而上学的な考え方でも、なんとかやってゆける。しかし、われわれが事物をその運動、変化、生命、交互作用において考察するやいなや、事情はまったく違ったものになる。その場合には、われわれはたちまち矛盾におちいる。」 (第20巻,125)
|
|
|
「矛盾による発展」
「矛盾を解決」など
弁証法の主要法則として、「矛盾による発展」が、あげられます。
「矛盾による発展」に係るものとして、「矛盾を解決」や「矛盾を揚棄」などの用語が、見出せます。
矛盾を解決,18 |
矛盾の解決,8 |
矛盾が解決,5 |
矛盾の展開,5 |
矛盾 爆発,6 |
矛盾の発展,5 |
矛盾を揚棄,5 |
矛盾の揚棄,3 |
矛盾の統一,3 |
矛盾の調整,2 |
矛盾を発展,1 |
矛盾は調整,1 |
矛盾が爆発,1 |
矛盾の尖鋭化,1 |
矛盾の排除,1 |
矛盾を廃止,1 |
矛盾を解消,1 |
矛盾を緩和,1 |
矛盾を融和,1 |
矛盾の融和,1 |
矛盾の除去,1 |
矛盾を発展,1 |
矛盾が揚棄,1 |
|
|
|
「矛盾を解決」などの考察
「矛盾を解決」
「以上の抜粋から、カーライルの立場はかなりはっきりうかびあがってくる。彼の考え方は、全体として、本質上汎神論的であり、しかもドイツ的汎神論の考え方である。あらゆるイギリスの哲学的思考の結論は、理性にたいする懐疑であり、結局矛盾におちこみながら、その矛盾を解決する能力をもたないということの告白である。その結果、一方では信仰に逆もどりし、他方では純然たる実践に没頭して、もうそれ以上形而上学等々にはたずさわらないようになる。」 (第1巻,595)
「カーライルと彼の立場にとっては、ドイツ哲学を知らないことは、どうでもよいことではない。彼自身はドイツ的な理論家であるが、それでもやはり彼の国民性によって経験にたよる傾きがある。彼ははなはだしい矛盾に陥っている。ドイツ的=理論的な立場をその最後の結論までおしすすめ、それを経験と完全に和解させるときにはじめて、彼はこの矛盾を解決することができる。彼がはまりこんだ矛盾を脱却するためには、カーライルはあと一歩踏みだせばよいのだが、ドイツにおけるあらゆる経験がしめしているように、この一歩は困難な一歩である。彼がその一歩を踏みだすことを、ぜひとも希望したい。」 (第1巻,603)
「ベーコンが彼の理性によって観念論と実在論との矛盾を解決することができなかったからという理由で、理性一般がそうする能力がないと考えるべきだということに、また、観念論はむぞうさに捨てさるべきで、経験が唯一の救済手段とみなすべきだということになった。この同じ源泉から、認識能力にたいする批判が、また一般に心理的傾向が、生まれてくる。イギリス哲学は、最初から、もっぱらそういう心理的傾向の枠内で活動してきたのであるが、その後この矛盾を解決しようとした試みがすべて失敗におわったあとで、ついに、この矛盾は解決不可能であり、理性は不十分であると宣言して、宗教的信仰か経験か、そのいずれかに救いをもとめるようになったのである。」 (第1巻,607)
「商品が価格付与の過程でその流通可能な形態を得て、金がその貨幣性格を得たのちに、流通は諸商品の交換過程が内包していた諸矛盾をあらわすと同時に、それを解決するであろう。諸商品の現実の交換、すなわち社会的な物質代謝は、使用価値および交換価値としての商品の二重の性質が自分を展開し、しかも商品そのものの形態転換が同時に貨幣の一定の諸形態に結晶するような形態転換のかたちでおこなわれる。この形態転換を述べることが、流通を述べることである。すでにみたように、商品が発展した交換価値であるのは、商品の世界と、それとともに実際に発達した分業が前提される場合だけであるが、流通は、全面的な交換行為とその更新の不断の流れとを前提する。」 (第13巻,69)
「この方法によると、われわれは、歴史的、事実的にわれわれのまえにある最初の、そして最も単純な関係から出発する。ここではしたがって、われわれが見いだす最初の経済的関係から出発する。われわれはこの関係を分析する。それがひとつの関係であるということのうちに、それが、相互に関係しあう二つの側面をもつということもふくまれている。これらの側面のおのおのがそれ自体として考察される。そこから、それらが互いに関係しあうしかた、それらの交互作用が出てくる。解決を要求する諸矛盾が生じるであろう。しかし、われわれがここで考察するのは、われわれの頭のなかだけに生じる抽象的な思考過程ではなく、いつか実際に起こったか、あるいはいまなお起こっている現実の過程であるから、これらの矛盾もまた実践のうちで発展し、おそらくその解決を見いだしたであろう。おれわれはこの解決のしかたを追求し、そしてそれがひとつの新しい関係の創出によっておこなわれたこと、そこでわれわれは次に新しい関係の相対立した二つの側面を展開しなければならないことなどを見いだすであろう。」 (第13巻,478)
「彼が提起した問題には、嘲罵によってではなく、近代「経済学」の分析によってのみ答えることができるということに、彼は気がついたのでした。同時に、彼は経済学的カテゴリーの体系を弁証法的に叙述しようとしました。カントの解決不可能な「二律背反」のかわりに、へーゲルの「矛盾」が発展の媒介をするはずでした。」 (第16巻,26)
「プロイセンで(そしてその先例に従ってドイツの新帝国制度のもとでも)、こういう矛盾にみちた社会状態のなかから必然的な帰結として発展してきた国家形態は、外見的立憲制である。この形態は、古い絶対君主制の、今日における解体形態であるとともに、ポナパルティズム君主制の存在形態でもある。」 (第18巻,254)
「矛盾の解決」
「プロレタリア革命、諸矛盾の解決―プロレタリアートは公権力を掌握し、この権力をつかって、ブルジョアジーの手からすべりおちてゆく社会的生産手段を、公共の財産に転化する。この行為によってブロレタリアートは、生産手段をそれの従来の資本としての性質から解放し、生産手段の社会的性格に、自己を貫徹する完全な自由をあたえる。あらかじめきめられた計画にもとづく社会的生産が、このときから可能になる。生産の発展によって、いろいろな社会階級がこれ以上存続することは時代錯誤になる。社会的生産の無政府状態が消滅するにつれて、国家の政治的公権も眠りこんでゆく。人間は、ついに自分自身の社会的結合の主人になり、それによって、同時に自然の主人に、自分自身の主人になる―すなわち、自由になる。こういう世界解放の事業を遂行することが、近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的諸条件と、したがってそれの本性そのものとを究明し、そうすることによって、行動すべき使命をおびた今日の被抑圧階級に、彼ら自身の行動の諸条件と本性とを意識させること、これが、プロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。」 (第19巻,225)
「矛盾が解決」
「矛盾が解決」の考察は、「矛盾が〜」の用例を、参照してください。
「矛盾」「爆発」
「恐慌においては、社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾が暴力的に爆発する。商品流通は一時破壊される。流通手段である貨幣が流通の障害物になる。商品生産と商品流通のすべての法則が逆立ちする。経済的衝突がその頂点に達したのである。生産様式が交換様式に反逆し、生産カが、生産様式をこえて成長して、この生産様式に反逆するのである。」 (第20巻,285)
「矛盾の展開」
「しかしその商品は、他の商品の所有者にとっては、それが彼にとって使用価値であるかぎりでだけ商品となり、そしてその商品自体の所有者にとっては、それが他人にとって商品であるかぎりでだけ交換価値となる。だから同じ関係が、本質的に等しく、ただ量的にだけ違う大きさとしての諸商品の関係でなければならず、一般的労働時間の物質化したものとしての諸商品の等置でなければならず、それと同時にまた、質的に違う物としての、特殊な欲望にたいする特殊な使用価値としての諸商品の関係、つまり諸商品を現実の諸使用価値として〔互いに〕区別する関係でなければならない。しかしこの等置と非等置とは互いに排斥しあう。こうして一方の解決が他方の解決を前提することによって、たんに問題の悪循環が現われるだけでなく、一つの条件の充足がその反対の条件の充足と直接に結びついていることによって、相矛盾する諸要求の一全体が現われる。諸商品の交換過程は、これらの矛盾の展開であるとともに、解決でもなければならないが、しかしこれらの諸矛盾は、交換過程のなかではこういう単純な様式ではあらわされえない。」 (第13巻,29)
「矛盾の発展」
「矛盾の発展」の考察は、「これらの矛盾」や「その矛盾」の用例を、参照してください。
「矛盾を揚棄」
「これに第二の否定がつづくが、それは、否定の否定として、したがって、『個人的所有』の再興、ただし土地および労働手段の共同所有を基礎としての、より高い形態での再興として、特徴づけられている。マルクス氏が、この新しい『個人的所有』を同時にまた『社会的所有』ともよんでいるのは、むろん、へーゲルの言う矛盾を揚棄した―揚棄というのはことばのしゃれであって、つまり克服されているとともに保存されているということである―高次の統一がここに現われているというわけである。」 (第20巻,135)
「矛盾の揚棄」
「資本主義社会では、生産手段は、まえもって資本に、すなわち人間の労働力を搾取する手段に転化していないかぎり、活動を始めることができないからである。生産手段と生活手段とが資本という性質をとらなければならないという必要が、幽霊のようにそれらのものと労働者とのあいだに立ちはだかる。ただこの必要があるためだけに、生産の物的な積粁と人的な積秤との結合が妨げられるのである。ただこの必要があるためだけに、生産手段は機能することを許されず、労働者は働いて生きてゆくことを許されない。こうして、一方では、資本主義的生産様式にはこれ以上これらの生産力を管理してゆく能力がないことが、証拠だてられる。他方では、これらの生産力そのものが、ますます力つよくこの矛盾の揚棄をせまるようになる。つまり、それを資本という性質から解放すること、それの社会的生産力としての性格を実際に承認することを、せまるようになる。」 (第20巻,286)
「止揚」
「マルクスは依然として、彼がつねにそうであったとおなじ革命家であって、科学的な著作でもこの点での彼の見解をだれにもましてつつみかくそうとしていない。しかし、社会的変革のあとはどうなるかについては、彼はわれわれにきわめて漠然たる暗示しかあたえていない。われわれは、大工業が「生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対を、したがって同時に新社会の形成要素と旧社会の変革要素を成熟させる」ことを、そしてさらに、生産の資本主義的形態の止揚が「個人的所有を復興させるが、しかしそれは資本主義時代の成果を基礎としてであり、自由な労働者の協業を基礎とし、土地と労働そのものによって生産された生産手段とにたいする彼らの共同所有を基礎としてである」ことを知るのである。」 (第16巻,216)
「矛盾の統一」
「ミルがこのようなやり方に避難しているのは、ただ、彼がほかにまったく助けを求めるものを知らない場合だけである。ところが、彼に一貫している方法はこれとは違っている。経済的関係―したがってまたそれを表現する諸範疇―が、対立を含んでいて、矛盾とまさに矛盾の統一とである場合には、彼は対立の統一の契機のほうを強調して、対立のほうを否定する。彼は、対立の統一を、この対立の直接的な一致にしてしまうのである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,108)
「矛盾は調整」
「金のその交換価値以上への上昇、すなわちそれにふくまれている労働時間によって規定された価値以上への上昇は、金の生産の増加をひきおこし、ついには供給の増加が金を
ふたたびその正しい価値の大きさにまで引き下げてしまうであろう。逆に、金のその価値以下への低下は、金の生産の減少をひきおこし、ついには金はふたたびその正しい価値の大きさにまで上昇してしまうであろう。これらの相反する運動によりて、金の金属価値と金の流通手段としての価値とのあいだの矛盾は調整され、流通する金量の正しい水準は回復され、商品価格の水準はふたたび価値の尺度に照応するようになるであろう。」 (第13巻,148)
|
|
|
なお、ヘーゲルの弁証法において、「アウフヘーベン(aufheben)」という用語が、用いられます。 アウフヘーベンの訳語として、「止揚」が、一般的に、用いられています。
日本語の『本文』中では、「aufheben」は、見出せません。
「アウフヘーベン」は、揚棄の訳語として、以下の一カ所のみ、用いられています。
「ヘーゲルの哲学は、この哲学に固有の意味で「揚アウフヘーベン棄」されるほかはなかった。」 (第21巻,277)
「揚棄」は、132ページ、225箇所で、用いられています。
他方「止揚」の使用は、以下の、6ページ、9箇所のみです。
「分業を止揚する共産主義革命」 ( 第3巻,407)
「労働組合は、この競争を止揚し、労働者間の結合(Vereinigung)でこれに代わらせようとすることを、目的とする。」 (第6巻,538)
「資本主義的生産様式」は止揚されなければならない」 (第16巻,210)
「生産の資本主義的形態の止揚」 (第16巻,216)
「自分と矛盾し自分を止揚する両性体としての立憲君主制」 (27巻,342)
「自由貿易は資本と賃労働の対立を止揚するかわりに、それを極端にまで押しすすめるだけである。」 (補巻1,526)
「価値と富とのたんなる概念の区別で、リカードは困難を止揚しているわけではない。」 (補巻3,101)
「生産力の現実的増加と商品の現実的増加は、それにもかかわらず生じ、そしてこの価値の増加―それは生産の増加へむかってのそれ自身の運動となってみずからを止揚する―とのあいだの矛盾が、いっさいの恐慌等の根拠となっている。」 (補巻3,102)
「そこでたとえば、自由貿易はこの不均衡を止揚するとによって、労働者から「彼の他のすべての欲望を自由に」みたすことのできる源泉を止揚することになる。」 (補巻3,119)
|
|
|
「矛盾」と「発展」
『本文』中の同一ページに、「矛盾」と「発展」が、288ページにわたり、見出されます。
これらの中から、「矛盾」と「発展」に関して、以下の考察が、読み取れます。
「矛盾」と「発展」に関する考察
「矛盾」と「発展」
「恐慌のたびに、社会は、自分自身のものでありながら自分で使用できない生産力と生産物との重圧のもとに窒息してしまい、消費者がいないために生産者が消費するものをなにももたない、というばかげた矛盾に当面して、とほうにくれる。生産手段の膨張力は、資本主義的生産様式がそれにくわえている束縛を爆破する。この束縛から生産手段を解放することは、生産力が不断に、たえず速度をくわえつつ発展してゆくための、したがってまた生産そのものが実際上無制限に上昇してゆくための、唯一の前提条件なのである。それだけではない。社会が生産手段を取得すれば、生産にたいする現存の人為的な障害がとりのぞかれるばかりでなく、現在では生産の不可避的な随伴物となっていて恐慌のさいに頂点に達する、あの生産力と生産物のまったくの浪費や破壊もなくなる。さらに、そうなれば、今日の支配階級やその政治的代表者の愚かな奢侈的浪費がなくなるので、大量の生産手段と生産物とが全社会のために利用できるようになる。社会の全員にたいして、物質的に完全にみちたりて日ましに豊かになってゆく生活というだけでなく、さらに彼らの肉体的および精神的素質が完全に自由に伸ばされ発揮されるように保障する生活を、社会的生産によって確保する可能性、そういう可能性がいまはじめて存在するようになったのである。しかり、この可能性は現に存在している。」 (第20巻,291)
「そこでは、資本主義的大工業は、たえず都市から農村へのがれることによって、たえず新しい大都市を生みだしている。金属工業地域でも同様であって、そこでは、部分的には他の諸原因が同じ結果を生みだしている。この新しい悪循環、このたえず新しく生みだされる近代工業の矛盾を廃止することは、これまた近代工業の資本主義的性格を廃止することによってのみ可能である。自己の生産力を単一の大規模な計画にしたがって調和ある仕方で組み合わせる社会においてはじめて、工業それ自体を発展させるとともに、その他の生産要素をも維持ないし発展させるのに最も適当した仕方で、工業を全国に分散させて配置することができる。こういうわけで、都市と農村との対立を廃止することは、たんに可能なだけではない。それは、工業生産そのものの直接の必要事となっており、同様にまた、農業生産の面からみても、さらに公共衛生の面からみても、必要なことになっている。都市と農村とを融合させることによってのみ、今日の空気や水や土壌の汚染をとりのぞくことができるし、そうすることによってのみ、今目都市で痩せおとろえている大衆の状態を変え、彼らの糞尿が、病気を生みだすかわりに植物を生みだすために使われるようにすることができる。」 (第20巻,304)
「奴隷制が生産の主要な形態になっているところでは、それは労働を奴隷的な活動とならせ、したがって自由民にとって不名誉なものとならせる。このため、このような生産様式からぬけだす道が閉ざされてしまう。他方では、もっと発展した生産は奴隷制を障害と感じて、それの除去を強く求める。奴隷制に基礎をおくあらゆる生産と、これに基礎をおく共同体とは、この矛盾にぶつかって没落する。」 (第20巻,630)
「一八四六年にマルクスと私が書いた古い未刊の手稿のなかに、次のように書かれている。「最初の分業は、子どもを生むについての男女の分業である。」そして、今日私はこれにこうつけくわえることができる。歴史上に現われる最初の階級対立は個別婚における男女の敵対の発展と一致し、また最初の階級抑圧は男性による女性の抑圧と一致する、と。個別婚は偉大な歴史的進歩であったが、それは同時に、奴隷制および私有の富とあいまって、今日までもつづいているあの時代、あらゆる進歩が同時に相対的な退歩であり、一方の福祉と発展が他方の不幸と圧迫をつうじて達成される時代、をひらくのである。個別婚は丈明社会の細胞形態であって、われわれは、すでにここで、文明社会のなかで完全に展開してゆく諸対立と諸矛盾との本性を研究することができるのである。 (第21巻,70
)
「だから、国家はけっしてそとから社会に押しつけられた権力ではない。それはまた、へーゲルの主張するような、「人倫的理念の現実性」でも、「理性の似姿および現実性」でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決不可能な矛盾に絡みこまれ、自分でははらいのける力のない、和解できない対立物に分裂したことの告白である。ところでこれらの対立物が、すなわち相争う経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争によって自分自身と社会を消耗させることのないようにするため、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを「秩序」の枠内に引きとめておく権力が必要になった。そして、社会から生まれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてみずからをますます疎外していくこの権力が、国家である。」 (第21巻,169)
「すべて哲学者においてはまさに「体系」こそすぎ去りゆくものである。しかもその理由はまさに、体系というものが人間精神のある不滅の欲求から、すなわち矛盾をすべて克服しようという欲求から、生まれでてくるものだ、ということである。しかし、矛盾がすべて一挙に取りのぞかれたら、われわれはいわゆる絶対的真理に到達したのであり、世界史は終わったのである。しかもなお世界史は、もはやなにもすることが残っていないのに、進んでいけ、と言われる。―これは、つまり、解決できない新しい矛盾である。矛盾をすべて克服するという右のような任務を哲学に課するということは、ただ人類全体だけがそのすすみゆく発展のうちで果たせることを、一人の哲学者に果たせと要求することにほ
かならない。」 (第21巻,276)
「商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的な労働として現われなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ認められるという対立、物の人化と人の物化という対立―この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてその発展した運動形態を受け取るのである。」 (第23巻・資本論Ta,150)
「工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけだとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避的な政権獲得は理論的および実際的な技術教育のためにも労働者学校のなかにその席を取ってやるであろうということである。また同様に疑う余地のないことは、資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係はこのような変革の酵素と古い分業の廃棄というその目的とに真正面から矛盾するということである。とはいえ、一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である。」 (第23巻・資本論Ta,635)
「この歴史的現象というのは、農業との対立における製造工業(本来のブルジョア的産業部門)の相対的に急速な発展のことである。農業はより生産的になったといっても、工
業がより生産的になったような割合においてではない。工業の生産性の増大が一〇であったとすれば、農業のそれはおそらく二であったであろう。したがって、農業は、たとえ絶対的にはより生産的になったとしても、相対的にはより不生産的になったのである。このことは、単にブルジョア的生産のまったく奇妙な発展と、それに固有な諸矛盾を示しているにすぎないが、しかし、それは、農業が相対的により不生産的になり、したがって工業生産物に比較して農業生産物の価値が上昇し、それとともに地代も上昇するという命題の正しさを妨げるものではない。農業労働は資本主義的生産が発展するにつれて工業労働よりも相対的に不生産的になったということは、農業の生産性が同じ速度と同じ程度では発展しなかったということを意味するにすぎない。」 (第26巻・剰余価値学説史U,8)
「商品が、自分たちの交換価値に、一つの独立な、自分たちの使用価値または現実の生産物としての自分たちの定在とは違った、それとはかかわりなく存在する一つの独立な表現を与えなければならないということ、言い換えれば、商品流通が貨幣形成にまで進行しなければならないということ、とはまったく別なことである。諸商品は、自分たちの交換価値に、このような貨幣での、まず第一に価格での、表現を与えるのであって、この価格では諸商品はすべて同じ労働の物質化として表わされ、同じ実体のただ量的にだけ違った表現として表わされる。商品の交換価値の貨幣での独立化は、それ自身、交換過程の、商品に含まれている使用価値と交換価値との矛盾の発展の、また、それに劣らずその商品に含まれている次のような矛盾の発展の、所産である。その矛盾とは、私的個人の一定の特殊な労働が、その反対物、すなわち同等な、必要な、一般的な、そしてこの形態では社会的な労働として表わされなければならない、というのがそれである。商品の貨幣としての表示のなかには、ただ、諸商品の価値量の相違が、排他的な一商品の使用価値での自分たちの価値の表示によって計られる、ということが含まれているだけではない。同時に、次のことが含まれている、すなわち、諸商品はすべて一つの形態で表わされ、この形態では諸商品は社会的な労働の具体化として存在し、したがってまた他のどの商品とも交換可能であり、任意にどの任意な使用価値にも置き換えることが可能である、ということがそれである。それだから、諸商品の貨幣としての―価格での―表示が最初にただ観念的にだけ現われるのであり、この表示は、諸商品の現実の販売によってはじめて実現するのである。 」 (第26巻・剰余価値学説史V,167〜168)
「矛盾による発展」
「こうして、人間は、一方では、世界体系の総連関をあますところなく認識しようとするが、他方では、人間そのものの本性からしても、また世界体系の本性からしても、いつになってもこの課題を完全に解決することはできない、という矛盾に当面する。しかし。この矛盾は、世界と人間という二つの要因の本性のうちにある矛盾だというだけではない。それはまた、いっさいの知的進歩の主要な槓杆であって、日々に、たえまなく、人類の無限の進歩的発展をつじて解決されてゆくのである。それは、たとえば数学の問題が無限級数や連分数で解かれるのとまったく同じである。じっさい、世界体系のどんな思想上の模写も、客観的には歴史的状態によって、主観的にはその模写をつくる人の肉体的および精神的状態によって、制限されており、今後もそうであろう。」 (第20巻,36)
「プロイセンで(そしてその先例に従ってドイツの新帝国制度のもとでも)、こういう矛盾にみちた社会状態のなかから必然的な帰結として発展してきた国家形態は、外見的立憲制である。この形態は、古い絶対君主制の、今日における解体形態であるとともに、ポナパルティズム君主制の存在形態でもある。」 (第18巻,254)
「矛盾は、ごく一般的に言えば、次のような点にある。すなわち、資本主義的生産様式は、価値やそれに含まれている剰余価値を離れて見れば、また資本主義的生産がそのなかで行なわれる社会的諸関係をも離れて見れば、生産力の絶対的な発展への傾向を含んでいるが、同時に他面では既存資本価値の維持とその最高度の増殖(すなわちこの価値のますます速くなる増大)とを目的としているという点にある。この生産様式の独自な性格は、既存の資本価値をこの価値の最大可能な増殖のための手段とすることに向けられている。それがこの目的を達成する諸方法は、利潤率の低下、既存資本の減価、すなわち、すでに生産されている生産力を犠牲としての労働の生産力の発展を含んでいるのである。」 (第25巻・資本論Va,313)
「ここで資本主義的生産様式は一つの新しい矛盾におちいる。この生産様式の歴史的使命は、人間労働の生産性の発展を容赦なく幾何級数的に進めて行くということである。この生産様式がここでのように生産性の発展に対立してそれを妨げるようになれば、それはこの使命に忠実でないことになる。これによって、資本主義的生産様式は、ただ自分が老衰してますます時代遅れになって行くということをあらためて証明しているだけである。」 (第25巻・資本論Va,328)
「資本が形成されて行く一般的な社会的な力と、この社会的な生産条件を支配する個々の資本家の私的な力とのあいだの矛盾は、ますます激しいものに発展して行って、この関係の解消を含むものになる。なぜならば、それは、同時に、生産条件を一般的な共同的な社会的な生産条件につくり上げて行くということを含んでいるからである。このようにつくり上げて行くことは、資本主義的生産のもとでの生産力の発展によって、またこの発展が行なわれる仕方によって、与えられているのである。」 (第25巻・資本論Va,331)
「発展による矛盾」
「ところで、この「歴史的発展」の必然的な結果は、立憲君主制の本質をなす内的諸矛盾―近世ドイツ哲学がまだ共和主義的な立場をとっていたころに、すでに十分にあばきだした内的諸矛盾―が、近代イギリスの君主制においてその頂点に達するということである。実際、イギリスの立憲君主制は立憲君主制一般の完成であり、また、比較的にいちじるしく発達した国民意識とならんで、現実の門閥貴族階級が、いまなお可能なかぎりで、その地位、その席を維持している唯一の国家、したがって、大陸で人為的に復興され、かろうじて維持されている立法権力の三位一体制が現実に存在している唯一の国家である。」 (第1巻,626)
「人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその姪桔に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる。このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、それで人間がこの衝突を意識するようになり、これとたたかって決着をつけるところの法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。一つの社会構成は、それが生産諸力にとって十分の余地をもち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されてしまうまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、もっと詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。」 (第13巻,6)
「大工業が資本主義的生産様式のなかにまどろんでいた諸矛盾を激しい対立へと発展させた結果、この生産様式の崩壊がせまっていることがいわば手にとるように明白になっており、新しい生産力そのものが、この生産力の現在の発展水準に照応する新しい生産様式を採用しないかぎり、これを維持することもいっそう発展させることもできないようになっている。また、これまでの生産様式によって生みだされ、たえず対立を深めながら再生産されている二つの階級のあいだの闘争は、すべての文明国をとらえ、日ごとにいっそう激烈になっている。そして、この歴史的連関や、この連関によって必然的なものになっている社会改造の諸条件や、やはりこの連関によって条件づけられるこの改造の輪郭にたいする洞察も、すでに獲得されている。」 (第20巻,275)
「一八五六年以後のロシアの内部的発展は、政府の政策に支持されて効果を現わした。社会的革命が巨大な進展をとげた。ロシアは日ごとにますます西ヨーロッパ化している。大工業や鉄道、一切の現物給付の貨幣による支払への転化、それに伴って社会の古い基礎の解体が、ますます迅速に発展している。だが、絶対主義的ツァーリズムと生成段階の新社会との矛盾もまた、同じ速度で発展している。立憲派と革命派の反政府諸党が形成され、政府がこれらを屈服させることができるのは、蛮行の強化によるしかない。」 (第22巻,45)
「マニュファクチュア自身の狭い技術的基礎は、一定の発展度に達したとき、マニュファクチュア自身によってつくりだされた生産上の諸要求と矛盾するようになった。 」 (第23巻・資本論Ta,483)
「直接的搾取の諸条件とこの搾取の実現の諸条件とは同じではない。それらは時間的および場所的に一致しないだけではなく、概念的にも一致しない。一方はただ社会の生産力によって制限されているだけであり、他方は、いろいろな生産部門のあいだの均衡関係によって、また社会の消費力によって、制限されている。しかし、社会の消費力は絶対的な生産力によっても絶対的な消費力によっても規定されてはいない。そうではなく、敵対的な分配関係を基礎とする消費力によって規定されているのであって、これによって社会の大衆の消費は、ただ多かれ少なかれ狭い限界のなかでしか変動しない最低限に引き下げられているのである。社会の消費力は、さらに蓄積への欲求によって、すなわち資本の増大と拡大さ開れた規模での剰余価値生産とへの欲求によって、制限されている。これこそは資本主義的生産にとっての法則なのであって、それは、生産方法そのものの不断の革命、つねにこれと結びついている既存資本の減価、一般的な競争戦、没落の脅威のもとでただ存続するだけの手段として生産を改良し生産規模を拡大することの必要によって、与えられているのである。それだから、市場は絶えず拡大されなければならないのであり、したがって、ますます市場の諸関連もそれを規制する諸条件も生産者たちからは独立な自然法則の姿をとるようになり、ますます制御できないものになるので内的な矛盾が生産の外的な場面の拡大を求めるのである。ところが、生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費関係が立脚する狭い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ちた基礎の上では、資本の過剰が人ロ過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾ではないのである。なぜならば、この両方をいっしょにすれば、生産される剰余価値の量は増大するであろうとはいえ、まさにそれとともに、この剰余価値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾は増大するのだからである。」 (第25巻・資本論Va,307)
「資本主義的生産様式のなかで発展する、人口に比べての巨大な生産力、また、それと同じ割合でではないとはいえ、人口よりもずっと急速に増大する資本価値(単にその物質的基体だけではなく)の増大は、増大する富に比べてますます狭くなって行く基礎、つまりそのためにこの巨大な生産力が作用する基礎と矛盾し、また、この膨張する資本の増殖関係と矛盾する。そこで、恐慌が起きる。」 (第25巻・資本論Va,331)
「労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。しかし、この過程の特定の歴史的な形態は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである。」 (第25巻・資本論Vb,1129)
「しかし、次のことは明らかだった。すなわち―ブルジョア経済にこの理論的に無容赦な表現を与えたその同じ現実の発展が、それのなかに含まれている現実の諸矛盾を発展させ、ことに、イギリスにおける「国民」の富の増大と労働者の貧窮の増大との対立を発展させるのだから、さらにまた、これらの諸矛盾がリカードの理論などにおいて無意識だとはいえ理論的に的確な表現を与えられたのだから―、プロレタリアートの側に立った人々が、理論的には彼らにとってすでに処理されてあった矛盾につかみかかったということは、当然だったのである。」 (第26巻・剰余価値学説史V,340)
「このように「法発展」の進行は大部分、次のような点にしかありません、すなわち、まず経済諸関係の法的諸原則への直接の翻訳から生じる諸矛盾を除去し、調和のとれた法体系をつくり出そうとつとめ、ついで経済のいっそうの発展の影響と強制のためにこの体系が繰り返しつき破られ、新しい諸矛盾にまきこまれていく、ということです(ここではさしあたり民法だけを問題にします)。」 (第37巻,425)
既述の用例を、参照してください。
|
|
|
|
「否定の否定」
弁証法の三つの法則の一つとして、「否定の否定」が、あげられます。
『本文』中に、「否定の否定」の用語は、35ページにわたり、見出されます。
これらの中から、「否定の否定」の用法を、学ぶことができます。
「否定の否定」の用法
「われわれがみな知っているように、競争は封建的独占から生じたのである。だから、本来、競争が独占の反対物であったのであって、独占が競争の反対物であったのではない。それゆえ、近代的独占はたんなる反定立ではなくて、反対に、これこそ正真正銘の総合なのである。
定立―競争にさきだつ封建的独占。
反定立―競争。
総合―近代的独占。これは、競争の制度を前提するかぎりでは封建的独占の否定であり、そして、独占であるかぎりでは競争の否定である。
だから、近代的独占、ブルジョア的独占は、総合的独占であり、否定の否定であり、対立物の統一である。純粋な、正常な、合理的な状態にある独占である。」 (第4巻,169)
「マルクスはこう書いている。「それは否定の否定である。この否定は、個人的所有を再興するが、しかし、資本主義時代の成果を基礎として、すなわち、自由な労働者の協業と、土地および労働そのものによって生産された生産手段にたいする彼らの共同所有とを基礎として再興するのである。自己労働にもとづく諸個人の分散的な私的所有から資本主義的な私的所有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的な生産経営にもとづいている資本主義的な私的所有から社会的所有への転化よりは、くらべものにならないほど長々しい、きびしい、困難な過程である。」 これだけである。つまり、収奪者の収奪によってつくりだされる状態は、個人的所有の再興であるが、しかし、土地および労働そのものによって生産された生産手段の社会的所有を基礎としての再興である、と言っているのである。」 (第20巻,136)
「では、マルクスにおいては、否定の否定はどういう役割を演じているのか? 彼は七九一ページ以下に、それに先だつ五〇ページにわたっておこなった、いわゆる資本の本源的蓄積にかんする経済学的および歴史的な研究の結論をまとめている。
・・・
・・・
・・・
マルクスは、彼の歴史的=経済学的証明を終えてから、いまやはじめてそれにつづけて次のように述べる。「資本主義的生産様式および取得様式は、したがって資本主義的な私的所有は、自己労働に基礎をおく個人的な私的所有の第一の否定である。資本主義的生産の否定は、資本主義的生産そのものによって、自然過程のもつ必然性をもって生みだされる。それ否定の否定である」うんぬん
だから、マルクスがこの過程を否定の否定とよんでいるのは、そうすることでこの過程が歴史的に必然的なものであることを証明しようとしているのではない。その反対である。彼は、この過程が実際に一部はすでに起こっており、一部はこれから起こらざるをえないということを歴史的に証明したあとで、それにつけくわえて、この過程を、一定の弁証法的法則にしたがっておこなわれる過程とよんでいるのである。それだけのことである。」 (第20巻,138〜140)
「だが、デューリング氏の生活をこんなにまで不愉侠なものにし、彼にとって、キリスト教において聖霊にたいする罪が演じているのと同様な、許しがたい犯罪の役割を演じている、この恐るべき否定の否定とは、いったいなんであろうか? ―それは、ごく簡単な、いたるところで日々におこなわれている物事のはこび方であって、古い観念論哲学がそれにまとわせ、そしてデューリング氏型の手のつけようのない形而上学者たちがひきつづきそれにまとわせておくことを利益としている秘密めかしいたわごとのよそおいをはぎとってしまえば、どんな子どもにでもわかるものなのである。大麦の粒をとってみよう。幾兆のこういう大麦粒は、引き砕かれ、煮たきされ、醸され、それから食われる。だが、もしこのような大麦の一粒が、それにとって正常な条件に出会えば、つまり好適な地面に落ちれば、熱と湿気との影響を受けて特有の変化がそれに起こる、つまり発芽する。麦粒はそれとしては消滅し、否定され、それに代わって、その麦粒から生じた植物、麦粒の否定が現われる。だが、この植物の正常な生涯とはどういうものか? それは生長し、花をひらき、受精し、最後にふたたび大麦粒を生じる。そして、その大麦粒が熟するというと、たちまち茎は死滅し、こんどはそれが否定される。こういう否定の否定の結果として、ふたたびはじめの大麦粒が得られるが、しかし、一粒ではなくて、一〇倍、二〇倍、三〇倍の数で得られる。穀物の種はごく徐々にしか変化しないから、今日の大麦は一〇〇年まえのそれとほとんど同じである。だが、改良性に富む観賞植物、たとえばダリアか蘭をとってみよう。もしわれわれが種子とそれから生じる植物とを園芸家の技術によって処理するなら、この否定の否定の結果として、より多くの種子が得られるだけでなく、またより美しい花を咲かせる、質的に改良された種子が得られる。そして、この過程が繰りかえされるたびに、つまり新しい否定の否定のたびに、この完成化が高まってゆくのである。―大部分の昆虫、たとえば蝶でも、この過程は大麦粒の場合と同じようにおこなわれる。蝶は、卵から、卵の否定によって生まれ、そのいろいろな変態を経過して性的成熟に達し、交尾し、そして交尾過程が完了し、雌が多くの卵を生むとすぐ死ぬことによって、ふたたび否定される。他の植物や動物の場合には、過程はこんなに簡単にはかたつかないということ、すなわち、それらは死んでしまうまでに一回だけでなく、何回も種子、卵または仔を生産するということは、ここではまだ、われわれにとってどうでもよいことである。ここではただ、否定の否定が生物界の二つの界域で現実におこなわれているということを、指摘しさえすればよいのである。
さらに、地質学の全体は、否定された否定の系列、つぎつぎに起こる古い岩石層の破砕と新しい岩石層の堆積との系列である。
・・・
・・・
・・・
数学でも同じことである。ある任意の代数学的量、すなわち a をとってみよう。それを否定すれば -a (マイナスa)が得られる。
・・・
・・・
・・・
数式または方程式のうちには、xとyのかわりに、それらの否定、すなわちdxとdyがある。・・・ある点で―この否定を否定する。つまり、微分式を積分して、・・・
・・・
・・・
・・・
歴史においてもこれと変わらない。すべての文化民族は土地の共同所有から出発している。一定の原始段階をぬけだしたあらゆる民族において、農耕が発展してゆく過程で、この共同所有は生産にたいする桎梏となる。それは廃止され、否定され、長短さまざまな中間段階を経て私的所有に転化される。
・・・
・・・
・・・
」 (第20巻,141〜144)
「また、古代哲学は原始的な、生まれながらの唯物論であった。そういうものであったかぎり、それは、思考の物質にたいする関係をつきつめてきわめることができなかった。だが、この点を明らかにする必要が、肉体から分離できる霊魂についての学説を生み、ついでこの霊魂の不滅の主張を、最後には一神信仰を生みだした。こうして、古い唯物論は観念論によって否定された。しかし、哲学がさらに発展してゆくにつれて、観念論もまた維持できなくなって、近代唯物論によって否定された。否定の否定であるこの近代唯物論は、古い唯物論のたんなる復活ではなく、古い唯物論の永続的な基礎の上に、なお二〇〇〇年にわたる哲学および自然科学の発展と、さらにこの二〇〇〇年間の歴史そのものとの思想内容全体をつけくわえたものである。それはもはや哲学ではまったくなく、たんなる世界観であり、そして、この世界観は、なにか特別の科学中の科学においてではなく、現実の諸科学においてみずからを確証し、実証しなければならないのである。こうして、哲学はここでは「揚棄」されている、すなわち「克服されていると同時に保存され」ている。その形式からいえば克服され、その現実の内容からいえば保存されている。」 (第20巻,144)
「文明のどの新しい進歩も、同時に不平等の新しい進歩である。文明とともに生まれてきた社会がみずからのためにつくりだす制度はすべて、それの元来の目的の反対物に転化する。
「諸国民がみずから君主をいただいたのは、自分たちの自由を守るためであって、この自由を破壊するためではなかったことは、争う余地のないことであり、いっさいの国法の根本原理である。」
だが、それにもかかわらず、これらの君主たちは、必然的に人民の抑圧者となり、この抑圧を強めてゆき、ついに、絶頂にまで押しすすめられた不平等がふたたびその反対物に転化して、平等の原因となる点にまでいたる。すなわち、専制君主の前では万人が平等である、つまり平等にゼロである。
「ここに不平等の極限がある。円周を閉じ、われわれの出発した起点に接触する終局の点がある。ここで、すべての個人が平等になる。というのは、彼らはまさに無であり、臣民は、主君の意志以外にはもはやどんな法律ももたないからである。」しかし、専制君主が主君であるのは、彼が暴力をもっているあいだだけであり、したがって、人々が彼を「放逐する」ようになっても、彼は「この暴力に異議をとなえる」ことはできない。「・・・暴カが彼を維持した。暴力が彼をくつがえす。万事は、自然の順序にしたがっておこなわれる。」
こうして、不平等はふたたび平等に転化する。だがそれは、言語を知らない原人の古い自然の自然のままの平等ではなく、社会契約にもとづくより高度の平等である。抑圧者は抑圧される。それは否定の否定である。
だから、ルソーのこの書物には、すでにマルクスの『資本論』がたどっているものと瓜二つの思想の歩みがあるだけでなく、個々の点でも、マルクスが用いているのと同じ弁証法的な論法が、多数見いだされるのである。すなわち、その本性において敵対的で、矛盾をふくんでいる過程、一つの極端のその反対物への転化、最後に、全体の核心としての否定の否定がそれである。」 (第20巻,145〜146)
「それでは、否定の否定とはなにか?それは、自然、歴史および思考のきわめて一般的な、まさにそれゆえにまたきわめて広く作用している重要な発展法則である。それは、以上に見てきたように、動植物界でも、地質学でも、数学でも、歴史でも、哲学でも効力をもっている法則であって、この法則には、デューリング氏自身も、どんなに逆らおうがもがこうが、知らずしらず彼なりの流儀で従わなければならないのである。私がなにか特殊な発展過程、たとえば、大麦粒が発芽してから実をむすんだ植物が死滅するまでにこの大麦粒が経過する発展過程について、これは否定の否定である、と言ったところで、その発展過程についてなにも言ったことにはならないとすれば、自明のことである。なぜなら、もし私がそれとは反対のことを主張するのは、積分学もやはり否定の否定なのだから、大麦の茎の生活過程は積分学だとか、またそう言いたいなら社会主義だとかいった無意味なことを主張することにしかならないからである。しかも、こういう主張こそ、形而上学者たちがたえず弁証法になすりつけていることである。私がこれらすべての過程について、それらは否定の否定である、と言うとき、私はそれらをすべてまとめてこの一つの運動法則に包括しているのであって、まさにそれゆえに、おのおのの特殊過程の特殊性を考慮のそとにおいているのである。だが、弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学という以上のものではないのである。」 (第20巻,146)
「否定の仕方は、第一には過程の一般的性質によって、第二にはそれの特殊的性質によって、規定されている。ただ否定するだけでなく、その否定をふたたび揚棄しなければならないのである。だから、第一の否定は、第二の否定がなお可能であるような、あるいは可能となるような仕方で、処理されなければならない。どうすればよいのか? それぞれの場合の特殊的な性質におうじてそれをおこなうのである。もし大麦粒を引き砕き、昆虫を踏みつぶすなら、なるほど第一の行為はなされたが、第二の行為は不可能になってしまう。こういうわけで、どういう種類の事物についても、そこから発展が生まれてくるような、それ独特の否定の仕方があるのであって、このことはまたどういう種類の観念や概念にもあてはまる。微積分学での否定は、負の根から正の冪をつくる場合の否定とは違ったやり方でなされる。ほかのなにごとでもそうであるように、これは習得されなければならないのである。」 (第20巻,147)
「否定の否定の法則は、自然と歴史のなかで無意識的におこなわれ、またこの法則がついに認識されるまではわれわれの頭のなかでもやはり無意識的におこなわれているものであって、それをへーゲルがはじめて明確に定式化したにすぎない。」 (第20巻,148)
「すべてのインドゲルマン民族は共同所有から出発している。彼らのほとんどすべてにおいて、共同所有は、社会的発展の経過につれて廃棄され、否定され、他の諸形態―私的所有、封建的所有、その他―によって押しのけられている。この否定を否定して、より高い発展段階において共同所有を再興することが、―社会革命の任務である。また、古代哲学は、最初は生まれながらの唯物論であった。こうした唯物論から観念論、唯心が、論すなわち唯物論の否定が、はじめは霊魂と肉体との対立という姿をとって、つぎには霊魂不滅説と一神信仰というかたちで、生まれてきた。この唯心論はキリスト教の媒介によってあまねくひろまった。この否定にたいする否定は、―より高い段階における古いものの再生産、すなわち近代唯物論である。これは、科学的社会主義において、過去にたいする自己の理論的終結を見いだす。……
・・・
・・・
・・・
ところで、悪い、実を結ばない否定というものもある。―むろん、真の、自然的、歴史的、弁証法的な否定こそが、あらゆる発展の推進者(形式の面からみて)なのである。―すなわち、対立物への分裂、それらの闘争と解決、そのさい、獲得された経験にもとづいて、最初の出発点が(歴史においては部分的に、思考においては全的に)、ただしより高い段階で、ふたたび到達されるのである。―この、実を結ばない否定というのは、まったく主観的、個人的な否定であって、事柄自体の発展段階をなすものではなく、そとからもちこまれた臆見である。そして、そんなふうの否定をしてもなにも出てくるはずはないから、そういう否定をやる人間は、かならずや世界と仲たがいをしているにきまっており、どうしても、あらゆる現存するもの、既往のものについて、すなわち歴史的発展全体について、気むずかしくあらさがしをすることにならざるをえない。」 (第20巻,628〜629)
「ここに二つ、三つないしはそれ以上の変量、すなわち、変化するさいに相互に一定の関係をたもつような量があるとしよう。たとえば、それが二つの変量xとyであるとし、このxとyが出てくるある特定の問題、普通の数学では解けない問題を解くのだとしよう。xとyを微分してみよう。つまり、xとyを無限に小さくとって、それらがどれほど小さい現実の量とくらべてもなお極微となるように、―xとyには、それら相互の比、実質的基礎のまったくない比だけしか残らないようにしよう。そうすると、dx/dyは 0/0 に等しくなるが、ただしそれは、x/yの比で定立された 0/0 なのである。こういう二つの消滅した量のあいだの比ということ、それらの量の消滅する瞬間が固定されるということは、一つの矛盾ではあるが、そのことはわれわれにとって障害にはなりえない。そこで、私がやったことは、xとyとを否定したこと、だが、あとはどうなってもかまわないというような仕方でではなく、事柄の実態におうじた仕方で否定したことでなくてなんであろうか?いまや私が得た数式または方程式のうちには、xとyのかわりに、それらの否定、すなわちdxとdyがある。さて、私はこれらの数式をつかって普通のやり方で計算をやり、dxとdyを現実の量であるかのように取り扱ってゆき、ある点で―この否定を否定する。つまり、微分式を積分して、dxとdyのかわりに現実の量xとyをおくが、こうすることでまえのところに舞いもどったわけではなく、普通の幾何学や代数学がどう苦労しても歯の立たない問題を、それによって解いたのである。」 (第20巻,630)
「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだす。」 (第23巻・資本論Tb,995)
「それゆえにへーゲルにあっては否定の否定は、まさに見かけ上のものの否定による、ほんとうのものの確認なのではなくて、見かけ上のもの、あるいは自身にとって余所ものとなったものの、その否定における確認であり、あるいは或る対象的な、人間の外にいて彼とは独立であるところのものとしてのこの見かけ上のものの否定と、このものの、主体への転化である。
それゆえに、否定と保持、肯定を結合する意味をもつところの揚棄が或る独特の役割を演じる。
そういうわけで、たとえばへーゲルの法哲学においては、揚棄された私権はイクオール道徳であり、揚棄された道徳はイクオール家族、揚棄された家族はイクオール市民社会、揚棄された布民社会はイクオール国家、揚棄された国家はイクオール世界史である。」 (第40巻,564)
|
|
|
以下、「原因」と「結果」や「中間項」などに関しては、未完成です。
暫時、「電子書庫・書籍・書類・ノート」の仕事に、集中します。 (2024年5月1日)
|