唯物論と観念論

はじめに

幸一は、20代から40代の30年ほどは、分子の世界を対象とする、量子化学の研究を、行っていました。
従って、自然化科学者としての、物の見方、思考方法が、身に着いていきます。
また、物の見方に関して、認識を深める必要が、ありました。

人間が、物を見るという行為は、人間が感覚器官と頭を働かせて、自然や社会を、認識するものです。
これは、哲学では、「思考と存在との、精神と自然との関係」という、最高の問題とされています。
「なにが根源的なものか、精神かそれとも自然か」に対して、唯物論者と観念論者の、見解があります。

唯物論者は、「自然を根源的なものと見なし」、「頭脳のなかの概念を現実の事物の模写」と、理解します。
さらに、「実証的諸科学の道」によって、「相対的真理を追いもとめる」ことが、可能です。

観念論者は、「自然にたいする精神の根源性を主張し」、「なにかの種類の世界創造を」、認めます。
神や霊魂の存在を認める宗教や、歴史の発展を「絶対的理念」の展開とするヘーゲルは、観念論の立場です。

自然科学者の幸一には、神や霊魂の存在や、死後の世界を認める、宗教的観念論は、受け入れ難いものです。
科学の研究者として、また実社会を生きていく上で、どの様に観念論と向かい合うかは、 重要な課題です。


宗教的観念論


宗教的観念論は、神や仏、天国と地獄、教義や神話、霊魂の存在、啓示、天罰などの、観念の世界です。
宗教的観念論は、寺院や仏壇、神社や神棚、読経や経典、彫刻など、具体的に現実化(具現化)しています。
具現化した諸物は、人間の観念に作用し、宗教的観念論の普及や固定化を、促します。
宗教的観念論は、「一定の認識の段階と社会の段階とがその時代と事情とに」対応し、普遍ではありません。

唯物論者と観念論者は、物の見方に関して、根本的な相違が、があります。
しかし、日本国憲法のもとでは、見解の相違が、人々の共同を妨げる、壁になりません。
日本国憲法では、「思想の自由」、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」、としています。
また、「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 」、としています。
物の見方の相違は、個々人の自由に係る問題であり、お互いに、尊重することが、大事です。

唯物論者は、宗教的観念の具現化である、寺院や神社などの崇拝は、しません。
しかし、具現化した諸物は、人類の認識の発展過程の遺産であり、精神活動による文化財です。
宗教的な諸物は、歴史的な遺産・文化財として、保存していくことが、必要です。


観念論と自然科学


自然科学の研究者は、自然界に存在する、物質が、研究の対象です。
天国や霊魂・神・仏など、観念論の対象は、いかなる観測手段を用いても、認識ができません。
従って、自然科学者は、唯物論者である。そう、単純な話では、ありません。

ニュートンは、天体の運動に、古典力学の法則を、見出しています。
古典力学による、天体の運動は、天体の初期位置と初期速度が分かれば、その後の位置は、予測できます。
ニュートンは、この問題に対しては、「神の最初の衝撃」という、観念論の立場です。
神学者でもあったニュートンは、二千年以上もの慣習からの脱却が、困難であったことが、伺えます。

自然科学の法則と、自然との関連を、どの様に、捉えるのか?唯物論と観念論では、異なります。
「自然と人間界とが原理にのっとる」、「原理が自然と人間の歴史とに適用される」という、見方は、
原理が「世界のできるまえから」存在することなり、精神の根源性を主張する、観念論の見地です。

唯物論は、「自然と人間の歴史」から「原理が抽象され」、「原理は研究の最終の結論である」、とします。
自然と人間が存在しない時代、地球が誕生以前の宇宙の年代は、古典力学の法則は、見出されません。


唯物論と不可知論


唯物論では、「われわれの頭脳のなかの概念を現実の事物の模写」と、理解します。
問題は、頭脳が現実を正しく模写できるか、どうか、不可知論と唯物論の、見解があります。

この問題に関して、不可知論者は、
「知識は、感官をつうじて受け取る情報にもとつくものである」、ということは、承認します。
しかし、「知覚する対象の正しい描写」であるかどうかを、「どのようにして知るのか」
「対象やその性質について語る場合には」、「自分の感官に生じさせた印象のことを言っているだけである」

この問題に関して、唯物論者は、
「人間の行動」は、「この困難を解決していた。プディソグの味のよしあしの証明は食うことにある。」
行動の結果が、「対象とその性質についての知覚が」「実在に一致している」かどうかの、証明になります。
実験と産業の、実践と結果から、「自然現象についてのわれわれの認識が正しいこと」が、証明できます。