中鉢末吉さんと芝桜



江尻光一著「園芸の極意」(生活人新書 日本放送出版協会発行)より

五八歳で一念発起、独力で芝桜の名所をつくった男

 これは五八歳でそれまでの仕事を止め、自らの信念に基づき、八ヘクタールという広大な場所に、芝桜をコツコツ植えた男の物語だ。
 彼の名は中鉢末吉、一九一八年生まれだから、今年で八四歳。眼は生き生き、背筋はぴんとはり、声は若くて高く、どうみても年令より二〇歳は若く見え、体からはエネルギーがほとばしっている。
 住まいは北海道網走郡東藻琴村。女満別空港から車で三〇分ほどの所に自宅はあった。孫が一〇人、そして曾孫もいるという子宝にも恵まれた中鉢氏に二回お会いし、その魂のあり方に心を打たれた。
 今では東藻琴村の大切な観光資源となっているこの芝桜公園は、平成十二年度には二四万人という入場者を数えている。昭和五十九年にオープンした時には一万人だったそうだから、その観光資源としての発展ぶりは分かっていただけると思う。大都会に向かっての宣伝はなく、一度見た人のロコミで次第に来場者がふえた、というわけだ。
 とにかく、一度見た人はまた見たくなるというみごとさで、今後も観光客の自然増が見込まれているとのことだが、まず、芝桜とはどんな植物なのか、どうしてそこが芝桜の公園になったのかから記すことにしよう。
 もともと芝桜(学名はフロックス・スブラータ)は日本にあった植物ではなく、北米原産の宿根草で、ハナシノブ科。桜の字は持っているが桜草の仲間ではなく、咲いた花が桜の形をしており、地をはうように四方に拡がる株の姿が、芝生に似ているところから、この和名が生まれた。
 宿根草なので、一年中株は緑の葉を持ち、春から秋までの間、横に拡がってふえ、関東では毎年四、五月ごろ、東藻琴では五月中旬から六月上旬にかけて、桜の花形をした花径一・五センチくらいの小さい花を株一面につける。寒さにも、暑さにも耐え、雪の下で越冬しても株は枯れない、という特徴が分かり、この地で現在八ヘクタールにも広がっている。
 決して新しく輸入された植物ではない。以前からあちこちにあったが、たくさん栽培している所でも、畑の隅か、道端、あるいは門の前、階段の所など、どちらかといえば、幅三〇センチほどで細長く使う例が多かったので、こうした例を見ている方も多いはず。都会の中よりも、少し田園地域の住宅の周辺によく見かけたものだった。花色はピンク、濃ピンク、白、藤紫などあり、変わったものでは葉に臼い斑の入った株もある。観賞期間は三、四週間くらい。
 増やすのは種子でもできるが、ほとんどは株分け、あるいはさし芽による。寒いところでは花後に株分けして根付かせた方が確実だが、暖地では花後にさし芽を行い、発根したものを地に植えて育てると、翌年から少しだが花が見られる。
 さて、中鉢さんと芝桜との出会いは終戦直後のことだった。当時、留辺蕊町にいた姉の庭から分けてもらってきたとのことなので、もう五〇年余り前になる。三種類の花の株を少しずつ分けてもらい、自分の所の畑に植えてみたという。
 そのころの中鉢さんは農業を営んでいた。ハッカが全耕地面積の七〇パーセントを占めていたが、耕地面積は当時の北海道の農家の平均的耕地面積より小さかったため、いくら働いても収入は増えず、冬の間は出稼ぎに行っていたという。畑は馬を使って耕していた。つまり、人間が体の限りの力を使い、大地と闘い、少しばかりの収入を得るという生活だったらしい。
 そうした暮らしの中で、疲れた体と心をいやしてくれたのが芝桜だった。彼はこの植物をせっせと株分けで増やし、家の周りの畑に植え、その美しい花が咲きそろうのをじっと待っていた。この芝桜の畑が一〇アールほどになるにつれ、近所の人が見に来るようになり、少しずつ今までの努力が報われかけたころ、彼の人生に転機が訪れた。
 それは藻琴山のふもとにある温泉管理公社からの誘いだった。ここにはユースホステルが設けられていて、中鉢さんの奥さんは、このユースホステルに勤めていた。ご主人が畑仕事で疲れ、冬の出稼ぎで体を傷めるのが気になっていたのと、芝桜が一〇アールにも増えて美しくなったころだったので、ふと、そんな話を初代の社長にしてみたという。すると社長は芝桜の見事さに心ひかれ、これを公社の裏山に植えてみてはどうだろうかと提案し、すぐさま中鉢さんにその植栽を頼んだのだった。ときに中鉢さんは五八歳。昭和五十一年のことだった。
「もともと畑も小さく、馬で畑を耕している状態だったので、頂いたお話に心動かされ、農業を止めて五八歳にして公社の職員になりました。大好きな花づくりに専念でき、村の人々や温泉を訪れるお客さんにも喜ばれるから」と当時の心境をふり返るが、実はこれが大変な大仕事だった。
 今でこそ八ヘクタール、東京ドームが二つ以上も入るほどの広い面積が、みごとな芝桜のカーペットで覆われているが、当初の藻琴山はダケカンバの自然林で、笹やトクサが小高い丘を一面に覆っていた。ここを一人で開墾しながら、芝桜の苗を植えていくわけだから、初めての人だったら見ただけで止めてしまいたくなるような重労働だ。
 小高い丘陵は傾斜角度が三〇度くらい、所によっては四五度もある。これを鍬、鋸、シャベルを使ってコツコツと開拓してゆくわけだ。しかも半年近くは雪の中だから、一年で半年しか仕事ができない。冬の間は温泉内の建造物の手入れなどをし、春になるとともに開墾しに出かけて行ったという。こうした労働が、齢五八歳でサラリーマンを止めた普通の男に行えるわけがない。やはりそれまで畑をコツコツと耕しながら、細々とした農業を続けてきた経験や、出稼ぎで夜の仕事を黙々とこなしてきた忍耐強い努力が生きたと考えるべきだろう。
 現在の機械農業と違い、昔の農業はすべて人力で行った。広い面積を耕すときなど、ときには馬や牛が使われたが、細かい作業、例えば草取りや、薬かけなどはすべて人力だった。加えて、農業は収入が少なく貧しかったので、生活のすべてを切りつめていた。例えば照明にしても、小さくて暗い裸電球がぶら下がっているだけで、なるべく電気を使わないように節約しているところが多かった。
 こうした生活の積み重ねが、知らず知らずのうちに、ひたむきに働く忍耐強い性格を形成していたのだと思う。自分の力のすべてを振り絞っても、自然には勝てない。少ない収入を別の所から補うといった手段もあまりなかったので、苦しみを苦しみと思わず、自然の動きに従って暮らしてゆく、という心を養ってきたはずなのだ。
 現代社会では、弱者に対し「いじめ」といった非情な扱いをすることが、何と日常茶飯事になっている。自分の気にいらないことがあれば、いとも簡単に他人を刺してみたり、果ては、うるさい、やかましい、といった一時の感情でわが子を殺す、といった恐ろしく身勝手な犯罪も激増している。
 こうした自分勝手な性癖を身につけた人たちは、何もない自然の中で暮らしてみるとよい。自分の力というものがいかに小さく、どうあがこうと自然には抗えないものだということがわかるはずだから。
 淡々と話をされる中鉢さんの姿には、現代人の多くが失いつつあるこうした忍耐心と、労働をいとわない精神、それに花への情熱、さらには、この花を見て喜んでくださるお客様への感謝といった、心の澄みきった入間像が浮かび、思わずメモを取る手がふるえる覚えがした。
 話を現実に戻そう。人間一人がいかに努力して働いても、荒野の開拓は難事だった。雪のない時期に朝から晩まで休みなく働いても、きれいに仕上がる面積は知れている。なにせ急な斜面なので、人手で行うしかない。
 さらに、耕してきれいになったところには、苗を植えつけなければならない。その苗は自宅のわきの畑で増やしていたが、これを運ぷのはリヤカー、もちろん中鉢さん自身が引いてゆく。
 こうして、昭和五十三年くらいから始めた開墾と植えつけを、中鉢さんは約七年間、たった一人で行ってきた。
 苗を植えるだけですむならばまだよい。植えつけたあとの手入れがこれまた大変なのだ。なにせ開墾したばかりの荒地なので、春、雪が消えるとすぐに雑草の山になる。一方では開拓しながら、もう一方では株の保全のため、株の周りに出てくる雑草を抜く、さらに株を早く大きくするために肥料も与えなければならない。これを一人でコツコツとやってきたその精神力は並大抵なものではないと思う。
 人間は大自然の中で、たった一人になると気ばかり焦り、体はいうことを聞かなくなる。そして頭の中だけは、いらいらいするものだが、ここが中鉢さんのすばらしいところで、決して焦らない。ただ着実に仕事のみを続けてきた。
 年ごとに芝桜の咲く面積が増えるにつれ、温泉に入りに来る人々が、心の安らぎを養える、と声をだしてくれたためか、中鉢さんの下に部下を数人つけてくれた。スタートして約八年で、周囲が見違えるような景観に変わったころ、彼は六四、五歳になっていたわけだ。毎年毎年、よくも体が続いたものと思うが、これまた、若い頃、苦しみながらきたえた体があったからではないだろうか。ここを訪れる方は、満開の芝桜を見て、楽しい思い出とするのもけっこうだが、少しはその陰に隠れた労働のつらさも考えてほしい。
 この美しさを保つため、彼とその部下は、花のない期問中に最大の努力をしている。そのあたりについては、村で出している『東もこと』という広報誌の六月号に《芝桜が咲く》という特集がある。ここに掲載された中鉢さんの言葉を引用させていただこう。
 「植えつけた後がまた大変で、スギナ、スカンポ、タンポポなどの雑草抜きがあり、一か月かけて八ヘクタールの斜面をすべて廻ってくると、もう新しい草が生えている。これを再びまわって草取りをしたり、補植をしたりし、十月までに五巡はする。これを毎年毎年行うのだから生やさしいものではなかった」とあり、このあと
 「花は人を見ている。愛情を込めなきゃ駄目。手を抜こうものなら、てきめん不機嫌になる。丁寧に扱うときれいになる。花づくりは子育てと同じ」とコメントされている。
 何とすばらしい言葉だ。芝桜にほれ込み、コツコツと努力して働き、ひたすらその花を見る人に喜びをあげたい、という考えのもとに、人生を送ってきた人にのみ言える言葉だろう。
 中鉢さんは平成十一年、右ひざを痛めたので公社を辞め、今は自宅で花を育てている。これ以前、彼は平成四年にも一度公社を辞めている。「もう年だから」というのがその理由だったが、一年後、再び来てくれないか、との要請があり、その時は復職した。理由は、芝桜が機嫌を悪くし、ひどい状態になっていたから、とのことだった。以後、彼はまだ芝桜の機嫌をよくするためにつとめ、再び美しさを取り戻させている。
 どのように花に接し、どのように植物を愛したのかは、あまり語ってくださらなかったが、リタイヤした彼の家を訪ねると、家のわきの畑に、芝桜は植えてあった。かつて芝桜を一〇アールほど作って近所の方々に見ていただいていたように、そこには五品種の芝桜がきちんと植えてあり、来春の開花を待っていた。・そして彼のそれを見つめる眼は、限りなく慈愛に満ちていた。
 帰る前、中鉢さんに「大変な努力をされてきたと思いますが、その中でいちばん心に残った思い出は何ですか」と尋ねたところ、すかさず次のような話が出た。
 「自分が一人でコツコツとやっていて、少しずつ芝桜が咲くようになったころ、突然二人の中年の婦人に声をかけられた。、少し手伝わせてくれないか、とのことで、それでは、とお願いしてみた。都会風の人だったので、ほんの少しだけ手伝ってくれるのかな、と思っていたところ、この二人は温泉のあるユースホステルに泊まり込み、約一週間手伝ってくれた。何でも湘南の方から来た、とのことだった。もちろんボランティアということなのでお礼もしていないのだが」。
 さらに驚いたことに、このお二人は次の年も、その次の年もやってきて、中鉢さんの手助けをされた。ユースホステルに泊まるのも自費、羽田から飛んでくるのも自費、そして一週間くらい手伝ってくれては帰って行かれたのだという。これには本当に驚いた。
 「人は一生懸命やっていると、いつのまにか後押ししてくる人が出てくるものだね。この仕事をして本当によかったと思っている」と胸の内を語ってくださった。
 彼は一九一八年、東藻琴村に生まれ、上藻琴尋常小学校を卒業後、農業の生活に入った。戦時中は北千島に兵士として勤務し、玉砕で名高いアッツ島に渡る寸前に戦いが終わって帰って来た、とのことで、兵士としての辛い体験も持っておられるようだった。
 念のために付け加えると、東藻琴村は人口二八九五人(平成十三年四月)、世帯数一〇〇七。そしてこの村民の誇りが、芝桜公園だ。満開の日、この場に立ったことがあるが、地面一面に咲く芝桜の花のすばらしさと、その芳香に、まるで天国にいるかのような感じを受けたものだ。
 この偉業が、芝桜を愛した一人の農民の手によって始まり、その方の努力によって今では多くの来訪者の心に、安らぎや喜びを与えている現状を見、花との関わりはこのようでありたいものだ、との思いが深まった。さらに、この芝桜を毎年眺めながら育ってゆく子供たちの心に、どんなものが残されるのだろうか、とも考えてみた。五八歳で志を新たにして、新しい人生に挑戦した、この一入の入物像こそ、シルバー世代にとって大きな勇気を与えられる一つの理想の姿ではないだろうか。