江戸時代には、徳川将軍と諸国の大名とで、主従関係が結ばれ、幕府と諸大名が諸国の各村を支配していました。 主従関係の制度の一つが、徳川将軍から諸国の大名に対する、領地の安堵です。 領地は、各村を単位とします。領地の大きさは、その面積でなく、米の生産量に対応する、石高で示されます。 石高は、検地と呼ばれる調査で、田畑の面積を測量し、田ごとに石高が定められます。 佐賀藩は、徳川家康公から鍋島直茂公に、慶長六年(1601年)に、領地三十五万七千余石が、安堵されています。 藩主の世代交代である家督相続の儀のたびごとに、領地三十五万七千余石が、安堵されています。 三十五万七千余石の石高は、佐賀藩の本高と呼ばれ、江戸時代を通じて同じ値です。 三十五万七千余石は、天正十八年(1590)年、関白秀吉公から鍋島直茂公に対する、「御朱印」に記録されています。 従って、本高の決定は、諸国の各村における、太閤検地の値を用いたものと思われます。 本高は、主従関係の制度の一つである、諸大名の軍役の負担に関して、その大きさを決める目安となっています。 諸国の大名は、各村から税として、米の生産高に応じて、年貢米を徴収していました。 米の生産高は、草高として、「藩制一覧表」に記載されています。 米の生産高は、新田開発などの農地拡大、池や用水路などの灌漑施設の整備、生産技術の進歩などに、依存します。 また、米の生産高は、旱魃などの気候・風水害や病虫などの病害により、年毎に変化します。 従って、草高は、年々異なるので、五ヵ年の平均値を用いるのが妥当かと思われます。 「藩制一覧表」の草高は、平均値として記載されている藩もあれば、年々の取扱いが不明な藩もあります。 幕府所領の各村の石高は、五畿七道の73の諸国に関する、『旧高旧領取調帳』に記載されています。 幕府の石高は、『旧高旧領取調帳』を集計した結果、家臣の旗本の領地を含め、650万石です。 諸藩の石高の総計は、『旧高旧領取調帳』で、2461万です。全国の石高は、3100万石ほどになります。 徳川幕府は、諸藩に依存しない、独自の財政的な基盤を有していました。 徳川幕府が、諸藩から、税を徴収する制度は見当たりません。 従って、幕府は、諸藩の石高を、毎年把握する必要がありません。 諸藩の本高は、建前上の石高であり、江戸時代を通して、一定の値だったと思われます。 資料は、総ての藩を網羅していません。 戊辰戦争で旧幕府勢力であった、会津藩・山形藩・福島藩は、資料がありません。 岩国藩・岩崎藩・松岡藩・仙台藩は、草高・本高・新田に関して、資料が欠如しています。 資料には、本高や新田に関して、記載されていない藩もあります。 |
本高が6万石以上の藩
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新田高が1万石以上の藩
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草高が20万石以上の諸藩に関して、以下の藩の本高は、「藩制一覧表」に記載されていません。 名古屋藩・鹿児島藩・静岡藩・福岡藩・和歌山藩・高知藩・廣島藩・徳島藩・鳥取藩・福井藩・秋田藩・ 水戸藩・津藩・弘前藩・松江藩・前橋藩・彦根藩 佐賀藩の本高は、家康公から安堵された石高は、三十五万七千余石ですが、「藩制一覧表」は、21万石余です。 これは、三十五万七千余石が、小城藩・蓮池藩・鹿島藩の三支藩に、以下のように配分されたことによります。 211159(本藩)+73252(小城藩)+52625(蓮池藩)+20000(鹿島藩)=357036 なお、三支藩を含めた草高の総計は、88万6千5百石余になり、山口藩に次ぐ大きさです。 |